六時半の監査、感光紙のにおい

──平成0x29A年06月12日 06:30

朝六時半。窓の外はまだ薄暗い。

モニターの隅で記憶補助アプリが点滅している。「本日の監査対象:融資承認記録 第0xA7F2〜0xA801」。昨日も一昨日もだった。もう三週連続だ。

私はデスクの引き出しを開けて、エッジAI端末を取り出した。手のひらに収まる、角の丸い灰色の箱。ネットワークに繋がない、ローカル処理専用。監査用のパターン照合はこいつでやる。中央のドクトリン署名サーバーに問い合わせると応答が遅い上に、ログが三重に記録されて、そのログ自体がまた次の監査対象になる。

「おはよう、志保。コーヒー、先に淹れたほうがいいよ」

叔母の声。正確には、三年前に膵臓がんで亡くなった叔母・宮前節子の人格エージェント。生前は信用金庫で三十年勤めた人で、数字の扱いだけは私より確実に上手い。

「ありがとう。でも今日は胃が重くて」

「重いときこそ飲むの。空っぽで監査官の相手したら、判断が鈍る」

言い返せない。給湯室に向かいながら、棚の上に積んだファミコンカセットの山が目に入った。前任者の私物がそのまま残っている。『スーパーマリオブラザーズ3』と『ドクターマリオ』の間に、なぜか融資約款の控えが挟まっていて、それを見つけたのが先月の監査だった。紙の控えが物理的に存在していたことが「保全義務違反の可能性」として記録され、その記録の署名検証のために、さらに追加監査が発生した。

監査が監査を呼ぶ。

コーヒーを淹れて席に戻ると、端末にリクエストが届いていた。第0x3B12C内閣ユニットからの政策変更差分。融資記録の保存形式をデジタル統一にする案。紙の控えを廃止する内容。

「これ、通ったら楽になるのに」

「通らないわよ」と叔母が言った。「ドクトリン署名、見てごらん。ハッシュの末尾四桁、去年から同じパターンで弾かれてる」

エッジAI端末にかけると、三秒で結果が出た。不一致。署名アルゴリズムの既知の解読パターンと微妙にずれている。つまり、誰かが通そうとして署名を模造したが、模造の精度が足りない。あるいは、アルゴリズム自体がまた微かに変異した。どちらにしても、非承認になる。

「七回目だね、この差分」

「八回目」と叔母は訂正した。「記憶補助の履歴、確認してごらん」

アプリを開く。確かに八回。同じ内容が、異なるユニットから、異なる五分間の総理によって提出されている。全部弾かれている。

壁に掛かった写真が朝日を受けて白く光った。フィルム写真。叔母が信金の窓口に立っていた頃の、退職記念の集合写真。現像の粒子が粗くて、叔母の顔は少しぼやけている。でもエージェントの声は鮮明だ。鮮明すぎるくらい。

「志保、次の監査通知きてる」

モニターを見た。今日の監査が終わる前に、明日の監査の予告。対象は「本日の監査処理に関する手続き記録」。

私が監査した記録を、別の誰かが監査する。その記録を、また別の誰かが。

叔母のエージェントが少し黙った。それから、生前には聞いたことのない、低い声で言った。

「……ねえ、志保。これ、止まる日が来るのかしら」

記憶補助アプリが、その発言を自動で記録した。タグは「要確認:エージェント感情ゆらぎ」。

そのタグ自体が、来週の倫理検査の対象になることを、私はもう知っている。