NiMHの残り香と、皇室の欠片

──平成0x29A年07月13日 11:00

七月の湿気が、解体棟の屋根裏にまで染みている。

私は防塵マスクを顎まで下ろし、ぬるくなった麦茶のペットボトルを傾けた。二リットル。平成のコンビニで売っていたのと同じ形。ラベルには「六甲のおいしい水」と書いてあるが、中身はとっくに入れ替えてある。

「園江さん、B-7ラインの充電池、また混ざってますよ」

後輩の声が棚越しに飛んでくる。私は立ち上がり、仕分けトレイを覗いた。単三のNiMH充電池が二十本ほど、ニッケル水素の刻印を光らせて転がっている。容量表記がバラバラだ。1300mAh、1900mAh、2700mAh。三つの時代が一つのトレイに混在している。

「1300は初期型だから希少金属回収ライン。1900以降は再生パレット。分けて」

言いながら、腰のホルダーに挟んだ端末を開いた。折りたたみ式。画面の上半分にiモードサイトの簡素なメニューが並んでいる。「廃棄物台帳」「素材照合」「党ドクトリン署名検証」。私は「素材照合」を選び、トレイのバーコードを読ませた。

耳の奥で、叔母の声がした。

『園江、それ1300のほう、被膜が膨らんでるの見える? 液漏れしてたら素手で触っちゃ駄目よ』

園江文恵。私の父の姉。享年五十九。胆管がん。生前は市役所の廃棄物対策課に三十年勤めた人で、私のエージェントになってからも相変わらず細かい。

「見えてます、叔母さん。手袋してる」

『ならいいけど。……ねえ、今日の校正、終わった?』

校正。今朝から回ってきている仕事だ。解体棟の月次報告書を生成AIに通したあと、人間の目で最終確認する。生成AI校正は便利だが、この施設特有の3Dプリント部品の型番を勝手に「正規品番」へ書き換える癖がある。うちで使っているのは非純正の互換パーツで、型番体系が違う。毎月同じところを赤入れしている。

「まだ。昼休み明けにやる」

端末に通知が落ちてきた。件名なし。本文は一行。

〈遺伝子ネットワーク定期照合:微細差分検出。対象ノード:園江理沙(あなた)。差分値0.0003未満。自動補正予定。確認不要。〉

私は親指でスクロールを止めた。

遺伝子ネットワーク。皇室の、あれだ。年に一度届くか届かないかの通知で、大抵は「異常なし」で終わる。今回は「微細差分検出」。

『ああ、それね』と叔母が言った。『私が生きてた頃にも一回来たわ。何もなかったけど』

「自動補正予定、って書いてあるし」

『うん。でも差分値が出たってことは、どこかのノードが欠けたか、繋がり方が変わったかよ。まあ、あなたが気にすることじゃない』

気にしていない。ただ、0.0003という数字が妙に引っかかった。解体棟で毎日見ている3Dプリント部品の公差が、ちょうどそのくらいだったからだ。±0.0003ミリ。それ以下なら合格、それ以上なら再プリント。

人体の遺伝子ネットワークにも、公差があるのか。

昼のチャイムが鳴った。どこかでラジオが「今日は七月十三日、盆の入りです」と告げている。盆。死者が帰ってくる日。私の叔母は帰ってくるも何も、ずっと耳の奥にいる。

仕分けトレイのNiMHを一本つまみ上げた。1300mAh。被膜の端が微かに膨らんでいる。液漏れ寸前。けれどまだ、かすかに電圧が残っている。テスターを当てると、0.9V。使えはしない。でも死んでもいない。

『捨てなさいよ、それ』

「わかってる」

私はそれを希少金属回収ラインのコンテナに入れた。溶かされて、別の何かになる。

端末にもう一つ通知が来ていた。さっきの遺伝子ネットワークの続き。

〈自動補正完了。差分値:0。ネットワーク正常。〉

ゼロ。公差の内側に、戻っている。

叔母が小さく笑った気がした。盆の入りの、十一時過ぎ。湿気た空気のなかで、何かがほんの少しだけ繕われた、そういう昼だった。