傘立ての向こうに、プリント豚肉の温度

──平成0x29A年05月28日 21:30

俺が第十九地区観光情報センターの夜間窓口に立つようになって、もう三年になる。

五月の夜、九時半。閉館まであと三十分。

窓口カウンターの脇には、ビニール傘が七本立てかけてある。今日の雨はもう上がったのに、誰も取りに来ない。透明なビニール越しに、エントランスの床が歪んで見える。

「桐島さん、AI秘書からリクエスト届いてるよ」

耳の奥で、姉の声がした。亜紀。六年前に亡くなった。享年三十二。今は俺のエージェントとして、毎日こうして声をかけてくる。

「ああ、見てる」

俺は端末を覗き込んだ。画面は古いiモード風のUIで、青いドットが点滅している。AR広告が空中に浮かんでいるのに、こういうところだけ妙に古い。

【差分断片リクエスト受信】

送信元:第0x4A29F内閣ユニット

件名:観光施設における合成食品プリント機の設置義務化

「また来たね。今月三回目だよ、これ」

亜紀が呆れたように言う。

「毎回、微妙に表現を変えてくるんだよな」

リクエストの中身は、要するに「観光客が立ち寄る施設には合成食品プリント機を設置すべし」というものだった。来訪者が地域の食文化を体験できるように、という建前。実際には、プリント機メーカーの営業圧力だと誰もが知っている。

俺は承認ボタンに指を伸ばしかけて、止めた。

「どうしたの?」

「いや、ちょっと待って」

窓口の奥、休憩室に置いてあるスーパーファミコンが目に入った。昼間、子供連れの観光客が遊んでいたやつだ。コントローラーのケーブルが床に這っている。

あのゲーム機、平成初期の代物だ。でも隣には、最新式の合成食品プリント機が鎮座している。去年、観光協会が無理やり押し込んできた。豚肉や野菜のデータを読み込んで、その場で「プリント」する。

俺は一度だけ使ったことがある。豚肉をプリントした。見た目は完璧だった。でも、食べると何かが違う。温度が、均一すぎるんだ。本物の肉なら、部位によって微妙に温度が違う。脂身と赤身で、熱の伝わり方が違うから。

でもプリント肉は、どこを食べても同じ温度だった。

「桐島さん、承認するの?」

亜紀が促す。

俺は端末を見つめた。承認すれば、このセンターにももう一台プリント機が来る。予算が削られて、スーファミは撤去されるだろう。

「非承認にする」

「え?」

「理由欄に書く。『来訪者の体験価値向上には、地域固有の物理的体験の保持が優先されるべき』」

俺はキーを叩いた。古いガラケー型の入力デバイスだ。フリック入力とタッチパネルの中間みたいな、変な代物。でも、慣れてる。

送信ボタンを押した瞬間、耳の奥で通知音が鳴った。

「桐島さん、AI秘書からメッセージ」

亜紀の声が少し硬くなる。

画面に文字が浮かぶ。

【ご判断ありがとうございます。第0x4A29F内閣ユニット、任期終了まで残り2分47秒】

ああ、そうか。俺、今、内閣総理大臣だったんだ。

ランダムで選ばれた五分間。他にも何十万人かが、同時に同じ立場にいる。みんな、それぞれの現場で、それぞれのリクエストに応えている。

「ねえ、桐島さん」

亜紀が囁く。

「次のリクエスト、もう来てるよ」

俺は画面を見た。次は、ビニール傘の廃棄規制緩和についてだった。

窓口の脇で、七本の傘が静かに立っている。透明なビニール越しに、外の街灯がぼんやりと滲んでいる。

俺は、承認ボタンに指を伸ばした。

でも、押す前に考えた。この傘を誰かが取りに来るかもしれない。明日の朝、雨が降るかもしれない。

「非承認」

俺は呟いた。

亜紀が笑う。

「桐島さん、相変わらずだね」

残り時間、あと一分。

俺はもう一度、スーファミとプリント機を見た。どちらも、この国の「平成」を形作る部品だ。でも、どちらかが消えれば、何かが変わる。

通知音が鳴る。任期終了。

俺はまた、ただの窓口スタッフに戻った。

ビニール傘の一本が、静かに倒れた。誰も触れていないのに。

俺はそれを拾い上げて、また傘立てに戻した。濡れた柄が、手のひらに冷たかった。