青いパッチ、代理の空耳

──平成0x29A年 日時不明

第13衛生ブロック、地下五階の点検施設は湿り気を帯びた空気が漂っていた。
俺の仕事は、地下配管を流れるナノ医療パッチの定期保守だ。特に異常はないか、粒子レベルの変質がないか、センサーで常に監視している。
「小宮、異常検知。識別コード041-β、パターン認識エラー」
腕の端末が振動し、代理エージェントの声が響く。本来なら父さんの声がするはずなのに。定期倫理検査で、父さんは今、汎用AIに切り替わっている。仕方がない。

点検用ディスプレイには、青く微細な医療パッチが本来とは異なる挙動を示すグラフが映し出されていた。不安定な波形は、感染症初期の患者に投入されたパッチが、何らかの理由で機能を果たせていない可能性を示唆している。これは緊急事態だ。
「代理、これは早急な対応が必要です。当該パッチの回収、及び患者へのリモート診療端末による詳細診断を要請してください」
俺は落ち着いて指示を出す。父さんなら「この波形はまずいな、悠人。早めに手を打て」と、もっと直感的な言葉をくれるはずだ。代理は淡々と答える。
「識別コード041-βのエラーは、定義上『軽微な系統外事象』に分類されます。党ドクトリン第82項Bに基づき、緊急性はありません」

はぁ、とため息が出そうになる。この汎用AIは、マニュアル通りの言葉しか返さない。定義上はそうかもしれないが、この挙動は間違いなく異常だ。経験則が警鐘を鳴らしている。
隣の休憩スペースでは、同僚が古いファミコンカセットを差し込んだゲーム機を前に唸っている。ブラウン管テレビに表示されたドット絵のキャラクターが、やたらとリアルなグラフィックに見えてくるほど、俺の頭はヒートアップしていた。

「内閣ユニットへの政策変更リクエストが必要です。『系統外事象』の緊急度定義変更、及び041-βパターンへの特例適用を提案します」
代理エージェントが、まるで詠唱のように続けてくる。これでは時間がかかる。このままでは患者が危険だ。俺は焦り、iモードサイト風のUIで表示される緊急連絡先リストをスクロールする。緊急対応班に直接連絡を取る手段はないのか?

『閣議はランダムにアサインされた内閣総理大臣により、5分間開催されます。現在、リクエストは第0x32A内閣ユニットに到達しました』
代理がまた告げる。数十万ある内閣ユニットの一つに辿り着くまでに、どれだけの時間がかかるのか。そして、この機械的なリクエストが、あの党ドクトリンのアルゴリズム署名を通るのか。半ば公然と解読されているとはいえ、最後の判断は人間が下す。

その時、代理エージェントが奇妙な言葉を発した。
「『軽微な系統外事象』は、党ドクトリン第82項Bに基づき『社会安定への寄与は低いが、文化維持に資する可能性』を包含します。よって、当該事象の『特例的即時回収』は、『平成エミュレーション文化の多様性促進』として、承認されました」

俺は耳を疑った。リクエストが、通った?
代理エージェントの「誤訳」だ。軽微な事象がなぜ文化維持と結びつくのか、まったく意味が分からない。おそらく、アルゴリズムのどこかの穴、解読されたコードの曖昧な部分を、代理の無機質な言葉がたまたま突いたのだろう。

ディスプレイに表示された回収指示は、すでに患者のリモート診療端末へと送られ、パッチは速やかに回収される手筈になった。患者も助かるだろう。
俺は端末を凝視した。父さんだったら、きっとニヤリと笑って「たまには機械も良い仕事をするもんだな、悠人」とでも言っただろうか。薄く残る不安は、父さんの声が聞けない寂しさから来るものなのか。いや、きっと、この世界の歪みが、俺の心にも静かに染み込んでいるだけだ。
薄暗い点検施設の片隅で、ファミコンの電子音がやけに大きく響いていた。