複写の朱、あるいは夕暮れの集金袋

──平成0x29A年08月11日 17:20

「航、筆順が違うわよ。三本線は上から。あと、そのシャチハタ、少し傾いてる」

視界の隅で、姉の美由紀が呆れたように溜息をつく。ホログラムの彼女は二十八歳の姿のままだが、口うるささは生前よりも磨きがかかっている。倫理検査を終えたばかりの彼女は、以前よりも少しだけ「お節介」のパラメータが強化された気がした。

平成0x29A年8月11日、17時20分。集合住宅の開放廊下には、ぬるい湿り気を帯びた風が吹き抜けていた。眼下のロータリーでは、自動運転シャトルが『夕焼け小焼け』の電子音を響かせながら、無人の停留所に滑り込んでいく。この時間帯、党ドクトリンは「情緒的な帰宅風景」をエミュレートするため、街の音響を1990年代の夕暮れに固定するらしい。

私は手元の集金袋を握り直した。中には、近所のスーパーの特売情報が印刷された「折込チラシ」を再利用した封筒が詰まっている。チラシには「朝採れレタス 98円」とあるが、その横のARマーカーを読み取れば、実際には高タンパク培養ペーストのサブスク広告が展開される仕組みだ。

「しかたないだろ。第402ヘゲモニー期の署名アルゴリズムが、このブロックのマイクログリッドの維持費だけ『対面集金』に指定してきたんだから」

私は403号室のインターホンを押した。本来なら、内閣ユニットの並行処理で一瞬のうちに決済されるはずの事務だ。しかし、時折こうしてアルゴリズムが「社会安定のための物理接触」を要求してくることがある。これを私たちは「バグ」ではなく「伝統」と呼ぶことにしていた。

ドアが開くと、パジャマ姿の老人が現れた。私は慣れない手つきで、カーボン複写式の領収書を広げる。

「維持費の3000円、お預かりします」

老人が差し出したのは、旧千円札のデザインを模した地域通貨の紙切れ三枚だった。私はそれを集金袋に収め、ボールペンを握る。紙にペン先が沈む感触。複写の二枚目に青い文字が転写される独特の匂い。この「手書き領収書」の作成こそが、今の私に課せられた政治的義務だった。

「はい、領収書です。お疲れ様でした」

老人は満足げに紙を受け取り、ドアを閉めた。美由紀が私の肩越しに覗き込み、「あーあ、金額の『3』の形が不細工」と毒づく。

ふと、私のスマートグラスに通知が走った。第0x11B内閣ユニットからの緊急速報。たった今、どこかの誰かが「5分間だけ」務めている総理大臣が、党ドクトリンの差分リクエストを承認したらしい。

『――事務簡素化推進法案の可決。物理集金プロセスは直ちに廃止され、全額ポイント還元として処理される――』

私は手に持った領収書綴りと、ずっしり重い集金袋を見つめた。廊下の向こうまで歩いてきた苦労も、姉の小言に耐えながら書いた丁寧な楷書も、この瞬間に「無効なノイズ」へと成り下がったのだ。

「……無駄足だったな」

私が力なく笑うと、美由紀が珍しく優しい声を出した。

「でも、良かったじゃない。ほら、その領収書を切り離す時の『ピリピリ』って音、今のシステムじゃ再現できないわよ。凄くいい音だったわ」

私は言われるがまま、無効になった次のページを指先で切り離してみた。確かに、妙に心地よい抵抗と音が指に伝わる。

その瞬間、視界の端に小さなログが表示された。

【感情適応パッチ 0x88-A「アナログの温もり」を適用しました。ユーザーの幸福度が0.4%上昇しました】

私は、自分が感じた「心地よさ」さえもが、党が用意した最新のエミュレーションの一部だったことに気づき、手に持った紙の束をどう処理すべきか分からず、ただ夕暮れの団地を見下ろした。