銀盤のノイズ、夜の案内所に降る

──平成0x29A年12月20日 22:40

 平成0x29A年12月20日、22時40分。
 第14観光ブロックの「古都エミュレート・ゾーン」は、不自然なほど澄んだ冬の夜気に包まれていた。街灯はガス灯を模したLEDで、石畳の隙間からは時折、下層にある冷却システムの排気が白い蒸気となって立ち昇る。

「航太、またそのギヤの噛み合わせがズレてるぞ。平成の精密機械ってのは、もっとデリケートに扱うもんだ」
 耳の奥で、祖父の健三が苦言を呈した。享年82。生前は腕の良い地域ガイドだった彼の人格エージェントは、私の視覚ログを共有しながら、不器用な私の手元を監視している。

「わかってるよ、じいちゃん。でもこれ、3Dプリントした樹脂パーツなんだ。オリジナルの金属製じゃないから、どうしても摩擦係数が合わない」
 私は案内所のカウンターで、観光客から預かった「思い出再生専用機(ウォークマン・タイプ)」を分解していた。筐体は重厚な銀色の金属だが、中身はスカスカだ。ホログラムチップを読み取るための回転機構だけが、無理やり平成初期のギミックを模倣している。

 案内所の自動ドアが開き、一人の女性が入ってきた。コートの襟を立てた彼女は、困惑した顔で自分の首にかけたデバイスを指差した。それは観光客に貸与される「記憶補助・情景シンクロナイザー」だった。
「すみません、さっきから、五条大橋のあたりの記憶が……ノイズで見えないんです。更新エラーが出ていて」

 私は彼女のデバイスを預かり、業務用のアナログなガラケーを手に取った。液晶画面には「iモード」風のドット絵アイコンが並んでいるが、裏側では数十万の内閣ユニットが生成する暗号署名をリアルタイムで検証している。接続を試みると、画面に無機質なテキストが流れた。

【警告:党ドクトリン・アルゴリズムVer.402.1。記憶差分リクエストに対する署名が不整合です。政策変更リクエスト「観光資源の解像度維持」は、第0x8F21内閣ユニットにて保留中】

「ああ、これか……」
 私は溜息をついた。今夜、どこかの誰かが「5分間の総理大臣」として、観光予算のデータ優先度を下げる閣議決定に署名してしまったらしい。あるいは、党のアルゴリズムが冬の電力不足を懸念して、重要度の低い記憶データを一時的にパージしたか。

「お客様、申し訳ありません。現在、ブロックチェーン側の同期不備で、1990年代の風景パッチが読み込めなくなっています。今の仕様だと、橋がただのコンクリートの塊に見えてしまうはずです」
「そんな……。私、ここでプロポーズされた時の記録を、当時の解像度で再体験したくて来たのに」

 彼女の落胆は深かった。私はカウンターの隅にある「共有型バッテリー」のスタンドから、フル充電された黄色いカートリッジを一つ抜き取った。それを彼女のデバイスに無理やり外部給電として繋ぎ、3Dプリンターで出力したばかりの予備ギヤを、彼女のウォークマンの方に組み込む。

「じいちゃん、例の『裏口』、まだ生きてるか?」
「ああ。第402ヘゲモニー期のドクトリンは、末端の倫理検査さえ通れば、個人のエージェント権限で微細な差分修正を認めとる。私がガイドだった頃の座標データを、直接流し込んでやれ」

 祖父の指示に従い、私はガラケーを操作して、公式のサーバーを通さない「非公式な記憶の断片」を彼女のデバイスに転送した。それはシステム上の『正解』ではないが、祖父がかつて見た、もっと暖かみのある、少し解像度の低い「平成の冬」の風景だ。

 彼女がヘッドフォンを耳に当てると、その表情がふっと和らいだ。
「あ……雪。雪が降っています。今のシステムにはない、静かな雪」
「それは、じいちゃんが見ていた景色です。今の公式エミュレーションよりも、少しだけ色が濃いかもしれません」

 彼女は何度もお辞儀をして、夜の街へ消えていった。石畳を叩く彼女の靴音が、どこか軽やかになった気がした。

「航太、お前も粋なことをするようになったな」
 祖父が満足そうに笑う。私はその言葉を無視して、作業机に散らばった3Dプリントの失敗作を片付けた。ふと、ガラケーの画面を見ると、新しい通知が届いていた。

【通知:貴方は22:55から5分間、第0xCC2A内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました。党ドクトリンに基づき、速やかに閣議決定リクエストを確認してください】

 私はそれを一瞥し、署名ボタンを押さずに画面を閉じた。そんなことよりも、案内所の外にある共有型バッテリーの補充期限が迫っている。世界を統治するアルゴリズムの歪みを直すことはできないが、空になったバッテリーを交換することなら、私にでもできる。

 外に出ると、本物の空からは何も降っていなかった。けれど、石畳の隅には、誰かが落とした3Dプリントの小さな破片が、街灯の光を反射して、まるで溶けない雪のように白く光っていた。