夜更けの現像待ち

──平成0x29A年11月19日 01:10

平成0x29A年11月19日 01:10。

商業ブロックの裏通り、二十四時間営業の「スズキ写真館&メディア買取」。表の看板はネオンで“DPE”と“サブスク同時加入で半額”が交互に点滅している。

私はレジ奥の作業台で、フィルムのパトローネを指先で転がしていた。湿った薬品の匂いと、保温ポットの煮詰まったコーヒーの匂いが混ざる。棚にはチェキ互換の紙、写ルンです互換のフィルム、そして中古のカセットテープが透明ケースのまま並ぶ。客は少ない時間だが、夜は夜で「思い出」を買いに来る。

耳の内側で、母の声がした。

『手袋、替えた? 指紋つくよ』

「替えたよ」

返事は声に出さなくてもいい。けれど、私は出す。深夜の店内で人間の声を聞くと、まだ自分が生身だと思えるから。

母――近親人格エージェントの綾子は、去年の冬に心不全で死んだ。生前はこの店の先代で、フィルムの巻き戻し音だけで機械の調子を当てた。

今日の母は、ところどころ言葉が引っかかる。

『えっと、レジ締めたら……郵便局、行って……』

「郵便局、もうない。配送ロッカーだよ」

『そう。ロッカー。……あれ、なんで夜なの?』

私は小さく息を吐く。人格ゆらぎ。検査の予告は届いていないのに、症状だけが先に来ることがある。

作業台の端で、私のガラケーが震えた。折りたたみの液晶はiモード風のメニューだが、画面の上に薄いARの広告が重なって「今夜のおすすめ:思い出整理パック」と浮く。平成の混線は、もはや店の内装みたいに当たり前だ。

通知は、私の記憶補助アプリからだった。

【メモリノート:逸脱検知】
- 会話整合率 92→71
- 呼称の揺れ:母→店長→“私”
- 推奨:デジタルツイン照合

「照合、ね……」

私は棚の奥から、黒い小箱を出した。デジタルツイン・ビューワ。母の“店の癖”をコピーしたツインが、店内の各機器ログから常に更新されている。倫理検査のときに代理が来ると、ツインの方がよほど“母らしい”と言われたりする。

小箱を開くと、投影された母の輪郭がレジ横に立った。動きは滑らかで、表情も正確だ。正確すぎて、逆に少し怖い。

ツインの母が、私の手元を見て言う。

『現像は、二本まとめると液がもつ。一本目はテストに使って』

耳の母は、少し遅れて口を挟む。

『一本目は……ええと、テスト? そんなの、ケチくさい』

「……逆だよ」

私は誰に言ったのか分からないまま、フィルムを現像機に通した。機械が低い唸りを上げ、ローラーが回る。母は昔、こういう夜にカセットテープを店のラジカセに入れて、演歌と洋楽が混ざった録音を流していた。

そのカセットが、今夜は買い取られて店に戻ってきている。ラベルには母の字で「運動会’0x24」と書かれていた。

ドアベルが鳴った。

入ってきたのは、配送制服の若い人だった。胸のIDは内閣ユニットの下請け配送だ。薄い封筒を差し出し、「写真館さん宛て、差分断片の返送です」とだけ言った。

封筒の裏面には、暗号署名の検証結果が印字されていた。

【党ドクトリン署名:不一致(周知済み)】
【自動処理:受領のみ】

「周知済み、か」

配送員は苦笑いをして、すぐ去った。党のアルゴリズムなんて、末期にはみんな“だいたい”で回している。店でもそうだ。母の声も、だいたいで回そうとしている。

私は封筒を開けず、レジ下のトレーに入れた。開けても、私がどうにかできるものじゃない。

現像が終わり、濡れたネガがライトボックスに浮かび上がった。夜の公園、コンビニ前の自転車、誰かの横顔。粒子の粗い、けれど確かな世界。

耳の母が、ふいに小さな声で言った。

『この子、誰?』

「知らない。お客さんのだよ」

『……私、撮った?』

「撮ってない」

ツインの母が、淡々と補足する。

『この時間帯の撮影者推定は不可能。照合ログなし。記憶補助アプリ、推奨タグ: “他者の思い出に触れる際は深呼吸”』

私は言われた通り、深呼吸した。薬品の匂いが肺に入る。

レジの横で、買い取り済みのカセットを手に取る。ケースを開け、テープの窓から覗くと、磁性体が少しだけ波打っている。

私はラジカセに入れて、再生を押した。

ザッ、と白いノイズのあと、母の声が録音から流れた。

『ほら、走って! 転んでも泣かない!』

その声は、耳の中の母よりも、ツインの母よりも、ずっと昔の母だった。揺らぎのない、揺らぎそのものみたいな声。

耳の母が黙った。ツインの母も黙った。

私はネガを乾燥棚に吊るし、注文票にチェックを入れる。記憶補助アプリがまた震えた。

【逸脱検知:安定化】
- 会話整合率 71→83
- 推奨:現状維持

「現状維持、ね」

私はカセットの音量を一つ上げた。夜更けの店に、運動会の歓声が小さく満ちる。

耳の中で、母がようやく言った。

『いいテープ、残ってたのね』

「うん。残ってた」

嘘ではない。残っているのは、テープで、ネガで、アプリの警告で、ツインの輪郭で。

母本人は、もう残っていない。

それでも私は、明け方まで現像を続ける。いつもの手順で、いつものように。揺らいだら、揺らいだ分だけ、仕事を増やせばいい。フィルムは、急がせると失敗するから。