ノイズと継いだ指先

──平成0x29A年 日時不明

スマートグラスの片隅で、電圧を示す数字が不規則に瞬いている。俺は指先で古びた銅線を撫でながら、脳波UIの感度を上げた。じり、と焦げ付くような匂いが鼻をつく。

『…そこじゃない。その三本右のバイパスだ。親父さんが昔、手ずから撚ったやつ』

視界の端に半透明で浮かぶ親父のエージェントが、抑揚のない声で告げる。生きていた頃と変わらない、ぶっきらぼうな口調だ。
作業場の壁には、いつ手に入れたかも忘れたスーパーの折込チラシが画鋲で留められている。特売の卵の値段だけが、妙に目に焼き付いていた。

ピ、と短い着信音が鳴る。旧式の集合住宅の管理人からだった。
「木村さんとこ? また三階の電気がチカチカしてるんだ。悪いけど、見てやってくれんかね」
「ああ、わかった。すぐ行く」

工具一式をショルダーバッグに詰め、薄暗い作業場を出る。外に出ると、空の色は判然としなかった。いつからか、空を見上げる癖はなくなっていた。

歩きながら、スマートグラスに通知が割り込む。
【第0x88A1E内閣ユニットより政策変更リクエストのレビュー要請】
内容は『旧市街地における未登録電力網の正規化及び高圧送電線への統合案』。俺たちの仕事を根こそぎ奪うための、綺麗な言葉だった。

『またか。ドクトリンの理屈じゃ、ここの暮らしは守れん。無視しろ、拓』
親父が静かに言う。その通りだ。党のアルゴリズムが弾き出す最適解なんて、こびりついた油汚れの前では何の役にも立たない。

現場の配電盤は、案の定ひどい有様だった。親父が何十年も前に独自に組んだ回路。公式マニュアルには存在しない、継ぎ接ぎの芸術品。俺は深呼吸して、脳波UIに意識を集中させた。指先が、見えない電の流れと同期していく。

「あら、拓ちゃん。ご苦労さま」
背後から、しわがれた声がした。三階に住む老婆が、湯気の立つお茶を盆に乗せて立っている。
「親父さんにそっくりになってきたねぇ。あの人もよく、こんな風に黙々とやっていたよ。カセットテープで変な音を聞きながらね」
カセットテープ? なんだそりゃ。

その時だった。けたたましいアラートが視界を埋め尽くす。

【貴殿を第0x88A1E内閣ユニットの内閣総理大臣に任命します。任期は5分間です】

目の前に、先ほどの政策リクエストの承認画面が強制表示された。承認か、非承認か。俺の指一本で、この街の風景が変わってしまうかもしれない。

『…承認すれば、俺たちがやってきたことは全部消える。だがな、非承認にしたところで、この綱渡りが続くだけだ』
親父の声は、どこか遠くに聞こえた。

俺は配電盤に繋いだままの脳波UIに意識を戻す。老婆の部屋の照明が、ふっと安定した光を取り戻した。チラシの特売品。老婆の笑顔。親父が聞いていたという、カセットテープの音。
それらを守ってきたのは、党のドクトリンじゃない。親父が残した、非公式の知恵だ。

俺は、スマートグラスに表示された「非承認」のボタンを、強くタップした。

帰り道、俺は親父に尋ねた。
「なあ、親父。なんでカセットテープなんか聞いてたんだ? あの婆さんが言ってた」

エージェントは少しの間、沈黙した。

『…ノイズだよ。この地域の電力網にだけ流れる、独特のノイズだ。あれを聞けば、どこが悪いか、どこが悲鳴を上げているか、耳だけでわかったんだ』

親父は続けた。

『お前にはまだ早い』

俺は自分のスマートグラスに映る、整然と並んだデジタルの波形データを見た。親父が耳で聞いていたものを、俺は目で見ている。継いだ仕事の重さと、決して同じものにはなれないというどうしようもない断絶が、ずしりと肩にのしかかる。薄暗い路地を、俺はただ歩いた。