点滅するエッジ、錆びた排水路

──平成0x29A年 日時不明

倉庫の奥、埃っぽい備蓄品の山を眺める。訓練用の簡易食料パックはぎっしり詰まっているが、その隣で錆びつきかけた手動ポンプが寂しそうに鎮座しているのが、どこか滑稽だった。俺の視界の隅に、エッジAI端末が緑色の光を点滅させている。今日の訓練も滞りなく終わらせる、それが俺の仕事だ。

「おい、拓海。その手動ポンプ、ちゃんと油は差したか?いざって時に動かねぇんじゃ、ただの粗大ゴミだぞ」

俺のエージェント、祖父の悟が脳内チャットで話しかけてくる。享年72で老衰だったが、彼の生きた時代はもっとアナログな災害対応が主流だったらしい。だからか、時折、システムの盲点を突くような的確な助言をくれる。

「大丈夫だって、爺ちゃん。先月メンテナンスしたばかりだ。それに、今は自動排水システムがあるんだから」

端末がピコン、と音を立てる。訓練開始まで残り5分。備蓄品の最終チェックを終え、訓練場へと向かう。今日のシナリオは「集中豪雨による地下貯水槽の機能不全」。自動排水システムがメインだが、最悪の事態に備えて手動ポンプも使う想定だ。

訓練場に到着すると、合成音声アナウンスが響き渡った。「これより、第402ヘゲモニー期、地域防災訓練を開始します。災害レベルはステージ3、警戒を怠らないでください」。その声は妙に耳馴染みのある、平成初期のゲームセンターに流れていたような合成音で、場違いなノスタルジーを感じさせる。

訓練は順調に進んでいた。参加者たちが迅速に避難誘導を終え、俺はエッジAI端末で排水システムの状態を監視する。画面には緑色のグラフが規則的に波打っているはずだった。だが、ふと、一つのグラフが不自然にフラットになっているのに気づいた。排水ポンプの一つが、作動停止している。

「爺ちゃん、第3排水ポンプが止まってる。システムエラーか?」

『いや、それ、昨日の閣議決定の影響じゃねぇか?』悟が言う。『あの「都市機能最適化ドクトリン」ってやつ。排水負荷が低いと判断された箇所は、稼働を一時停止するってアルゴリズム変更があったはずだ』

俺は端末を操作し、昨日の閣議決定ログを呼び出した。確かに、第0xA29B内閣ユニットの承認履歴に、その「最適化ドクトリン」の項目があった。閣議決定は「党ドクトリン」に基づく暗号アルゴリズム署名が必要で、それは時に現場のリアルタイムなニーズと乖離する。まさか、訓練中にそれが露呈するとは。

「じゃあ、この訓練シナリオじゃ動かないってことかよ…」

『手動で切り替えろ。備蓄倉庫の手動弁、お前がいつも油差してるやつだ』

合成音声アナウンスが「排水システムの不調を確認。現場対応、急を要します」と緊迫感を煽る。俺は端末で管理本部に状況を報告しつつ、急いで倉庫へ引き返した。途中、他の作業員が古びた手書き領収書を握りしめ、何かの備品調達を急いでいるのが見えた。こんな状況でまだ手書きか、と呆れる。

倉庫に戻り、手動弁を回す。ゴトゴトと重い音が響き、錆びた排水管から水が流れ始める。エッジAI端末の画面には、手動による排水開始のログが表示された。その間、俺の胸ポケットに忍ばせていた小型のカセットウォークマンから、微かに平成のJ-POPが漏れ聞こえていた。俺が幼い頃、親が聞いていた懐かしいメロディだ。

このシステムは、一体何を「最適」と判断しているのだろう。働かずとも暮らせる世界で、俺たちは「平成エミュ」という曖昧なレールの上を走っている。効率化と最適化の名の下に、いくつもの「手動」や「アナログ」が、いつの間にか現場のセーフティネットとして機能している。それはまるで、誰も理解できない「党」のドクトリンを、人々が勝手に解釈して生み出した、もう一つのルールみたいだ。

手動弁を閉め、訓練場に戻る。合成音声アナウンスは「排水システム復旧。訓練を継続します」といつも通りに告げている。何事もなかったかのように。俺はポケットのウォークマンをそっと押さえた。カセットテープのA面が終わると、自動的にB面が再生される。この、どこかズレた世界の歯車が、今日も淡々と回り続ける音を聞きながら。