逆行する印鑑
──平成0x29A年 日時不明
朝八時、庁舎地下三階の書類処理室に降りる。
窓がない部屋だ。蛍光灯の下、積み重ねたファイルは腰の高さまである。わたしの仕事は、各内閣ユニットから上がってきた閣議決定書に、党ドクトリン署名の暗号ハッシュが正しく印字されているか確認することだ。簡単な仕事だが、間違いは許されない。
「おはよう」
ポケベルが鳴る。ディスプレイに表示されるのは亡き父・田中一郎からのメッセージだ。「朝食は摂った?」と書かれている。父は生前、同じく書類処理室で働いていた。十五年前に心臓発作で倒れた。今は父の人格エージェントとして、このポケベルを通じてわたしの行動を補佐する。
「済んだ」と返信する。
机に座り、最初のファイルを開く。第402ヘゲモニー期の政策変更リクエストだ。「都市水道管更新プログラム承認」という案件。署名欄には長い16進数が並んでいる。
いつもと同じ。
しかし、今朝は違う。
二番目のファイルを開いた時、違和感が走った。署名の最後の四桁。前日確認したファイルと、この日付のファイルで、方向が反対になっている。通常は左から右へ読む16進数だが、右から左へ印字されているものがある。
ポケベルを握る。父に報告しようとしたが、止めた。
代わりに、三番目、四番目と確認していく。すると、パターンが見えてくる。五分ごとに署名の向きが反転している。まるで時間が巻き戻るように。
古いファイリングシステムを引っ張り出す。紙の書類だ。去年のもの。署名はすべて左から右だ。今月に入ってから、反転が増えている。
ポケベルが再度鳴る。
「返信がない。何かあったか」
父だ。わたしの沈黙を察知した。
わたしは、ポケベルを握ったまま、最新のファイルをもう一度見つめた。
印鑑の方向は、通常、人間が押すときの自然な動きで決まる。左から右へ。だが、これらの署名は、その逆だ。誰かが、意図的に時間を逆行させているのか。それとも、ドクトリンアルゴリズム自体が、その方向を失いつつあるのか。
「大丈夫か」
ポケベルの画面が光る。父の声が、電子音の向こう側から聞こえるような気がする。
わたしは返信ボタンを長く押した。だが、メッセージは送信されなかった。ポケベルの画面に表示されたのは、エラーコードではなく、反転した16進数だった。
それは、昨日見た署名と同じものだった。
地下室の蛍光灯が、かすかに点滅し始めた。