青いカセットと朝焼けの欠片
──平成0x29A年10月07日 05:10
午前五時過ぎの冷たい空気が肺を満たす。郊外の小さな、しかし重要な遺伝子ネットワークノード。周囲を覆う竹林は、まだ夜の闇を深く宿していた。
「健太、そこは慎重にな。微細な揺らぎは、全体に響くぞ」
耳元のエージェント端末から、祖父・昭三の声が響く。享年78、老衰で亡くなった祖父は、かつて生命科学の分野で名を馳せた人物だ。彼の声はいつも、的確で、時に口うるさい。「分かってるよ、じいちゃん」と心の中で返しながら、私は腰をかがめた。ノードのメンテナンスハッチを開けると、古びたファミコンカセットの形をしたポートが見える。これは「遺伝子ネットワーク」の微細な調整パッチを適用するためのインターフェースだ。平成エミュの文化様式が定着してから、あらゆるデータストレージや入力デバイスが、昔のゲーム機材の意匠を模倣するようになった。
今日の点検で確認されたのは、皇室遺伝子ネットワークの一端に生じたごくわずかな、しかし放置すれば安定性を損なう可能性のある「差分断片」。このシステムは国民全体に薄く広く伝播した皇室遺伝子を基盤としていて、それが社会の目に見えない安定をもたらしているという。党ドクトリンが「社会安定に最適」と判断した結果だ。
触覚フィードバック端末を掌に装着し、ノード内部のバイオシグナルをスキャンする。指先から伝わる微細な振動。健全なネットワークは滑らかな水流のように感じるが、今日のそれは僅かに澱んでいる。祖父の声が再び響いた。「ほら見ろ、健太。あのわずかな乱れが、いつか波紋となる」。
私は、ポケットから青いファミコンカセットを取り出した。これには、今回の差分を修正するための「パッチデータ」が収められている。カセットをポートに差し込むと、懐かしい起動音がノードから聞こえる。ピコピコ、という8ビットの電子音。祖父が少し笑ったような気がした。「文明は回りまわって、面白いものだ」。
パッチの適用が始まる。触覚フィードバック端末の振動が、徐々に滑らかになっていくのがわかる。その間、私の個人端末が微かに震え、着メロが鳴り始めた。同期作業完了の通知だ。同時刻、私の管理下にある内閣ユニットへ、この差分断片の修正完了報告が自動で送信された。おそらく、今頃どこかの誰かが、5分間の総理としてこの報告をレビューし、党ドクトリンアルゴリズムに照らして承認するのだろう。末期のアルゴリズムは半ば公然と解読されているが、誰もその「承認」の形式を破ろうとはしない。それが、この社会の奇妙な安定を支えているのだ。
作業が終わり、ノードを閉じる。私は携帯端末に、今日の作業ログを記録する。使用した電力、発生した廃棄物、そしてそれらに対応するカーボンクレジット台帳へのリンク。全てがブロックチェーンで記録される。朝日が竹林の隙間から差し込み、ノードの金属製の蓋に反射する。その光は、まるで遠い昔の記憶の欠片のようだ。
「よくやった、健太」と祖父が言った。「これでまた、しばらくは安泰だ」。彼の声には、いつもの皮肉に加えて、微かな安堵が混じっていた。遺伝子ネットワークという見えない繋がりが、この奇妙な「平成」を保っている。その薄い膜のような安定を、私もまた守っているのだ。陽の光が、未来へと続く道を淡く照らしているように思えた。