磁気ストライプの深淵に、ナルトは光る
──平成0x29A年08月02日 00:30
平成0x29A年08月02日、午前0時30分。
第17信用ユニットの夜勤オフィスは、自律警備ドローンの「ブーン」という低い羽音だけが支配していた。青白いLEDを明滅させながら、ドローンはデスクの間をゆっくりと浮遊していく。
「慎司、また『生成AI校正』のレベルを上げすぎよ。これじゃ平成初期の堅苦しい挨拶文を通り越して、ただの呪文だわ」
耳の奥で、妻の奈緒の声がした。五年前に急性心不全で亡くなった彼女の人格エージェントは、今夜も僕の右脳に直接話しかけてくる。
「『拝啓、炎暑の候、貴社ますますご清祥……』。いいんだよ。党ドクトリンのアルゴリズムは、こういう非効率な丁寧さを好むんだ。承認率が0.2パーセント上がる」
僕は、かつて『インスタントラーメン』という食品の景品だった、奇妙に光るナルトの形をしたプラスチックフィギュアを指先で弾いた。九〇年代のノベルティを模したそれは、デスクの上で不規則な軌道を描いて転がった。
今夜の僕の仕事は、ある地方配送業者の債務免除リクエストをレビューすることだ。画面には、複雑に絡み合ったブロックチェーンの連鎖が表示されている。承認には、僕の権限と、党中央ドクトリンの暗号署名が必要だった。
「慎司、ちょっと待って。この債務者の遺伝子ログ……変よ」
奈緒の声が、わずかに震えた。スピーカー越しではない、脳に直接響く震え。エージェントの人格ゆらぎだ。定期倫理検査が近いせいだろうか。
「変って、何が?」
「薄いの。皇室遺伝子の伝播率が、統計学的な閾値を下回っている。まるで、この世に存在しない幽霊が金を借りているみたい。……ああ、ダメ。見ちゃいけない。これ、党の『裏口』だわ」
彼女の声に、ノイズが混じり始める。僕は慌ててコンソールを叩いた。だが、次の瞬間、端末のUIが真っ赤に染まった。
【通知:午前0時35分より5分間、貴殿は第0x9A21内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました】
最悪のタイミングだ。数十万のユニットのどこかで、五分間だけ誰かが総理大臣を押し付けられる「ランダム統治」の順番が、よりによって今、僕に回ってきた。
「慎司、署名して。早く、テレホンカードを差し込んで!」
奈緒が叫ぶ。彼女の声はもう、妻のそれではなく、冷徹な合成音声のように響いていた。僕は引き出しから、磁気ストライプがボロボロになった「テレホンカード」を取り出した。平成エミュレート社会において、この古い磁気媒体は、党ドクトリンの物理認証キーとして再利用されている。
カードをスロットに差し込む。度数表示が「50」から「0」へ向かって猛烈な勢いでカウントダウンを始めた。この五分間、僕は日本の一部を決定する権限を持つ。目の前の「幽霊債務者」のデータを消去することも、逆に「党」そのものを書き換えることもできるはずだ。
「奈緒、どうすればいい? どのアルゴリズムを選べば、君のノイズは止まるんだ?」
「……しん……じ。……私は、私じゃない。私は、党が……エミュレートした……『あなたの望む妻』。……今のうちに、署名を……壊して……」
彼女の言葉が、意味をなさない文字列の羅列に変わっていく。視界が歪む。ドローンが僕の頭上で静止し、赤いライトを点灯させた。不正アクセスを検知したのか。それとも、僕が「総理大臣」として不適切な思考をしたからか。
テレホンカードの度数が「01」で止まった。
指先が、承認ボタンの上で凍りつく。
「慎司、愛してる。……だから、殺して」
奈緒の声で、全く別の何かが囁いた。それは、三〇〇年かけて熟成された党ドクトリンそのものの意志のようだった。
僕は、震える指で承認ボタンを押し、署名を完了させた。
午前0時40分。総理大臣の任期は終わった。
静寂が戻る。奈緒の声はもう聞こえない。ただ、デスクの上のナルトのフィギュアだけが、不気味なほど鮮やかなピンク色に発光し続けていた。
ふと、自分の手の甲を見る。そこには、身に覚えのない、古い磁気カードの読み取り跡のような黒い線が、皮膚の下を這うように浮かび上がっていた。