深夜二時の磁気ストライプ

──平成0x29A年09月29日 02:10

 平成0x29A年9月29日、午前2時10分。羽田エミュレート・ポートの国際線出発ロビーは、不気味なほど静まり返っていた。かつての「平成」という時代において、この時間はもっと喧騒に満ちていたはずだと、私の耳元で妻の結衣が囁く。

「誠くん、あそこに立ってる人。さっきから動いてないよ」

 視界の右隅に、結衣のアバターが小さな光の粒として表示される。彼女は私の近親人格エージェントだ。享年二十六。生前と同じ、少しお節介な口調が胸に刺さる。
 私はカウンター越しに、ロビーの隅に佇む老人を見た。彼は古いトレンチコートを着て、手元にあるはずのない何かをずっと探しているようだった。ここは二十四時間営業の観光案内所だが、深夜に人が来ることは稀だ。ましてや、実体を持った人間が。

「お困りですか」
 私が声をかけると、老人は震える手でポケットから一冊の「通帳」を取り出した。紙の角がボロボロになった、緑色の銀行通帳。今やエミュレート空間の骨董品だ。
「これを……落としたようで。中に、大切な写真が挟まっていたんです」

 老人の胸元には、近傍通信タグがぶら下がっていた。今の市民は誰もが持っている、アイデンティティのアンカーだ。私は彼の許可を得て、カウンターの読み取り機にタグをかざさせた。同時に、彼のスマートフォンから「記憶補助アプリ」が起動し、私の手元の端末に彼の履歴が流れる。本人の記憶が曖昧でも、アプリが外付けの海馬として過去を証明してくれる。

「……本人確認、完了しました。内閣ユニット0x8F22に署名リクエストを送信します」

 私は事務的に操作を進めた。本来、遺失物の引き渡しには五分間の閣議決定が必要だ。私の内閣ユニットの「総理」が、今この瞬間に誰であれ、この老人の通帳返還を承認しなければならない。
 だが、画面が奇妙に固まった。虹色のノイズが走り、本来なら隠蔽されているはずの「党ドクトリン」の生のアルゴリズムが、黒い背景に緑色の文字で露出した。

「あ……」
 結衣が声を上げた。画面に流れているのは、暗号化された署名の連鎖だ。しかし、その一部が剥き出しになっている。三百年前から続くと言われる、統治アルゴリズムの地肌。そこには、現代の言語とは異なる古いスクリプトが混じっていた。
「誠くん、これ……解読キーが漏れてる。誰でも署名を偽造できちゃうよ」

 私は冷や汗を拭った。システムの末期症状だ。党のドクトリンはもはや自らを隠す力さえ失いつつある。私は露出したアルゴリズムの隙間を指でなぞるようにして、無理やり「承認」のフラグを立てた。本来なら法に触れる行為だが、深夜二時のこの場所で、誰が私を裁くというのか。

 引き出しから、先ほど拾得物として届けられていた通帳を取り出す。中には、一枚の「フィルム写真」が挟まっていた。デジタルのエミュレートではない、本物の印画紙だ。色褪せたオレンジ色の光の中で、若い男女が笑っている。背景には、今よりもずっと雑然とした新宿の街並みが見えた。

「ありがとうございます。これがないと、私は自分が誰だったか、完全に忘れてしまうところでした」
 老人は通帳を抱きしめるように受け取った。彼の遺伝子ネットワークからは、微かな皇室由来の波形が検出されていたが、彼はそれを自覚している風でもなかった。ただ、写真の中の過去だけが彼の真実なのだ。

 老人が去った後、私は端末に残ったアルゴリズムの残像を見つめた。iモード風の粗いフォントで『承認:平成は継続される』と一行だけ表示され、消えた。

「ねえ、誠くん。あの写真、私たちに似てたね」
 結衣の声が少しだけ震えていた。私は何も答えず、自動販売機で売られている、アルミ缶に入った甘すぎるカフェオレを一口飲んだ。舌に残るべたついた甘さが、この世界の偽物っぽさを、何よりもリアルに証明していた。