緑色の受話器に、きみの声は降らない

──平成0x29A年07月29日 15:50

午後の光が、ほこりの舞う部屋を斜めに横切っていた。

窓の外では、白い卵のような自律警備ドローンが、音もなく団地の上空を滑っていく。僕は手元のeペーパー端末に目を落とした。『第0x5C3A内閣ユニット、緑道整備計画の差分断片を承認』――どうでもいいニュースが点滅して消えた。

「高橋様。心拍数の軽微な上昇を検知。休憩を推奨します」

頭の中に、平坦な合成音声が響く。美咲のエージェントが法定倫理検査に入って三日。この代理エージェントとの生活にも、うんざりしてきたところだった。

「分かってるよ」

僕は立ち上がり、部屋の隅に積まれたディスクの山を漁った。プラスチックのケースがカチャカチャと鳴る。黒くて角張った、懐かしいゲーム機。確か、このあたりに。

「ねえ、プレステ2を起動したい」

「リクエストを解釈します……『追伸』を起動しますか?」

「違う。プレイステーション・ツーだ」

「再解釈……『公開ステーション・ツー』へのアクセスを試みます。認証が必要です」

ああ、もういい。美咲なら、僕がケースに指をかけただけで「あ、あれやるの? 懐かしいね」なんて言ってくれたのに。この代理人格は、僕たちの思い出の文脈を何も理解しない。ただの翻訳機だ。

気分転換は諦めて、僕はサンダルを引っかけて外に出た。

ひやりとしたコンクリートの廊下を歩く。何をするでもなく、階段を降りて、団地の中庭に出た。

そこには、モニュメントのように、一台の公衆電話がぽつんと置かれていた。鮮やかな緑色だけが、色褪せた周囲の景色から浮いている。もちろん、回線なんて繋がっていない。ただの飾りだ。

僕は吸い寄せられるようにそれに近づき、重い受話器を手に取った。
耳に当てても、聞こえるのは沈黙だけ。

「高橋様。対象オブジェクト『公衆電話』への接続を検知。緊急通信プロトコルに移行しますか?」

代理エージェントの無機質な声が、また頭に響く。僕は苛立ちを抑えきれずに、ほとんど吐き捨てるように言った。

「……もういい。美咲にメッセージを送ってくれ。検査が終わったら、すぐ連絡が欲しいって」

少し間があった。代理エージェントが、僕の感情的な発話を解析しているのだろう。

「用件を要約します。『定期検査終了後、即時通信を要求』。これで送信しますか?」

「違う」

「では、再度リクエストを」

「『会いたい』って、そう伝えてくれ」

今度は、もっと長い沈黙が流れた。
やがて代理エージェントは、いつもより少しだけ低いトーンで応答した。

「……当該表現は多義的であり、正確な意図の伝達を保証できません。メッセージを翻訳、最適化します。『面会要求:高優先度』として送信しますか?」

違う。そうじゃないんだ。僕が言いたいのは、そんな事務的な言葉じゃない。

諦めて受話器を置こうとした、その時だった。

「……翻訳エラーの可能性があります。参考情報として、類似コンテクストにおける佐藤美咲様の過去ログを再生します」

不意に、ノイズ混じりの音声が頭の中に流れ込んできた。それは、代理エージェントの合成音声とはまったく違う、紛れもない美咲の声だった。

『ねえ、直人。私がいなくなっても、私のこと、好きでいてくれる?』

生前の、たわいない会話の断片。代理エージェントが、僕の『会いたい』という言葉から、最も近しい感情の記録として探し出してきたのだろう。

僕は緑色の受話器を握りしめたまま、誰に言うでもなく、かすれた声で呟いた。

「……うん」

夏の終わりの空に、また一体、警備ドローンが静かに通り過ぎていった。