亜空間の宛名書き

──平成0x29A年11月19日 09:00

 平成〇x二九A年、十一月十九日。午前九時。
 第十八居住ブロック、通称「ネオ・ダンチ」のエントランスホール。
 私は脚立の上で、空中に浮かぶ半透明のノイズと格闘していた。

「航平、右上の画素がまだ死んでるよ。昔のブラウン管みたいに叩けば直るんじゃないかい?」
 脳内の蝸牛インプラントから、しわがれた声が響く。祖母のフミだ。享年八十四。私が十歳の時に老衰で逝ったが、エージェントとしてはすこぶる元気だ。
「ばあちゃん、これは空中ディスプレイの位相ズレだ。叩いたら指がすり抜けるだけだよ」
 私は虚空に浮かぶ設定パネルを指先で弾く。指の動きに合わせて、エントランスの空間に投影された「居住者掲示板」が激しく明滅した。季節外れの桜並木の映像が、ブロックノイズでモザイク状に崩れる。

 足元から、電子音が聞こえた。
『ワオン!』
 一階に併設された無人コンビニの省人化レジだ。誰かが決済するたびに、間の抜けた犬の鳴き声がホールに響く。これも平成エミュレーションの一環らしいが、メンテナンス中の身には神経に障る。

「あのう、修理屋さん」
 脚立の下から声をかけられた。見下ろすと、白髪の上品な老婆が立っていた。手にはジャラジャラと音を立てる家の鍵の束を握りしめている。
 物理鍵の束。セキュリティレベルの低い旧規格住居の証だ。
「はい、なんでしょう。今、掲示板は使えませんよ」
「いえね、掲示板じゃなくて……私の部屋の端末がおかしいの。住所録が出てこないのよ」

 老婆の困り顔を見て、私は脚立を降りた。私の仕事は共用部の保守だが、住民トラブルの一次対応も業務に含まれる。
 彼女のIDを私のバイザーで読み取る。田中ヨシコ、九十二歳。第402ヘゲモニー期以前からここに住んでいる古株だ。
 彼女のクラウドストレージの状態を確認して、私は呻いた。
「……同期エラーですね」
「あら、まあ」
「昨夜、党ドクトリンのデータベース更新があったんです。その際に、田中さんの個人データの一部が、他の方のデータと混線してしまったみたいで」
 よくあるトラブルだ。数十万の内閣ユニットが並行処理する過程で、稀にハッシュ値が衝突する。結果、彼女の「個人的な記録」へのアクセス権が、デジタルの彼方へ吹き飛ばされてしまった。

「困ったわぁ。そろそろ年賀状の準備をしなくちゃいけないのに」
 田中さんは鍵の束を不安げに弄んだ。
 年賀状。一年の始まりに、紙やデジタルカードを送り合う儀式。十一月も半ばを過ぎると、街中の空中ディスプレイはその広告で埋め尽くされる。
「バックアップからの復元を申請しますね。ただ、本人確認が必要です。バイオメトリクスは……」
 私は端末を操作したが、赤いエラー表示が出た。混線のせいで、生体認証すら「田中ヨシコ」を認識しない。

「厄介だねえ」とフミが呟く。「このままじゃ、この人はシステム上、幽霊扱いだよ」
 私は溜息をついた。こうなると、物理的な認証トークンが必要になる。
「田中さん、何か、ご自身を証明できる古いIDカードとか、物理的な契約書はお持ちですか?」
「そんな難しいもの、どこにしまったかしら……」
 彼女は心細そうに視線を落とす。その手の中にある鍵の束が、カチャカチャと鳴った。

 その時、フミが声を上げた。
「航平、その鍵束。一番小さいやつ、見てごらん」
 私は老婆の手元に目を凝らした。大小様々な鍵に混じって、プラスチックの小さなタグが付いている。
「それ、見せてもらってもいいですか?」
 田中さんは素直に鍵束を差し出した。タグには、擦り切れかけた文字で『郵便』と書かれている。
「これ……昔の郵便受けの鍵ですね」
「ええ、もう何十年も使ってないけれど、なんとなく捨てられなくて」

 私は工具箱から汎用リーダーを取り出した。この時代の郵便受けはスマートロック化されているが、その鍵には古いRFIDチップが埋め込まれている可能性がある。
 リーダーをタグにかざす。微かなビープ音。
 ディスプレイに、文字列が浮かび上がった。
『田中ヨシコ 昭和〇x五二年 一月一日 受領』

「出た! これ、過去の物理年賀状の受領記録と紐づいてますよ」
 システムが、数十年前の物理ログを「真正な個人の痕跡」として認識したのだ。デジタルデータが混線しても、物理的な「モノ」に刻まれた歴史は改竄されない。
 私はすかさず再同期コマンドを打ち込んだ。
 エントランスの空中ディスプレイが瞬き、ノイズが晴れていく。

「はい、これで大丈夫です。お部屋の端末も直っているはずですよ」
 田中さんは、ほっとしたように笑った。
「ありがとう。これで今年も、あの人たちに挨拶ができるわ」
 彼女は大事そうに鍵の束を胸に抱いた。

「ねえ、航平」
 老婆が去った後、フミが静かに言った。
「年賀状なんて、ただのデータのやり取りだと思ってたけどさ。あの鍵束みたいに、誰かと繋がっていた証拠が、いつか自分を助けてくれることもあるんだねえ」

 私は修理を終えた空中ディスプレイを見上げた。
 そこには、鮮やかな色彩で『年賀状じまい、まだ早いです』というキャッチコピーが踊っている。
 また『ワオン!』と間の抜けた音が響いた。
 私は苦笑して、脚立を畳んだ。次の現場へ向かうための社用車のキーを、ポケットの中で確かに握りしめながら。