通帳の湿気、配電盤の沈黙

──平成0x29A年01月30日 03:40

俺の仕事は、第22給電区の省電力マイクログリッド保守だ。深夜三時過ぎ、携帯に通知が来た。「E-6ブロック、負荷異常。手動確認を推奨」。合成音声アナウンスが、淡々と住所を読み上げる。

外は冷たい。防寒着を羽織り、自転車で現場へ向かう。E-6は古い集合住宅街で、各棟に小さな配電盤が埋め込まれている。平成エミュの影響で、配電管理システムは妙にアナログ寄りだ。端末はタッチパネル式だが、最終確認には紙の通帳サイズの「給電記録簿」へ手書きでサインが必要になる。湿気でふやけた紙を開くと、前任者の字が滲んでいた。

配電盤を開ける。内部のリレーが一つ、微妙に焦げた匂いを放っている。交換すれば済む話だ。部品を取り出そうとしたとき、エージェントが囁いた。

「リョウ、その部品、認証が必要だぞ」

兄貴のトオルだ。享年26。工場の事故で死んだ。生前は電気技師で、今も俺の仕事を手伝ってくれている。

「ああ、わかってる」

端末を開くと、部品交換には「内閣ユニット承認」が必要だと表示された。平成エミュ時代の名残で、インフラ系の変更は閣議決定扱いになる。俺はリクエストを送信した。数秒後、承認が降りる。署名者は「第0x4A29B内閣ユニット 内閣総理大臣 匿名市民 #87A3F」。5分間だけの総理だ。

リレーを交換し、配電盤を閉じる。給電記録簿にサインを書き込む。そのとき、ポストに挟まっていた紙の回覧板が目に入った。

「E-6ブロック住民各位。給電契約更新のお知らせ。押印の上、次の世帯へ回覧してください」

回覧板には、十数世帯分の押印欄がある。半分ほど埋まっているが、残りは空白だ。俺は回覧板を手に取り、裏面を見た。そこには小さな文字で注意書きがあった。

「本回覧板は、党ドクトリン準拠の署名アルゴリズムに基づき、各世帯の同意を記録します。未回覧の場合、給電契約は自動失効します」

トオルが言った。

「リョウ、その回覧板、倫理検査の対象じゃないか?」

「……何?」

「俺のエージェント、来週が検査期限なんだ。検査中は代理エージェントになる。この回覧板、代理エージェントが処理すると、署名アルゴリズムが狂う可能性がある」

トオルの声が、少しだけ不安定に聞こえた。俺は回覧板を元に戻し、配電盤の前に立った。

「……大丈夫だ。お前がいなくても、俺は仕事ができる」

そう言ったが、胸の奥に小さな引っかかりが残った。

自転車で帰る途中、携帯に再び通知が来た。「E-6ブロック、給電契約失効。手動確認を推奨」。合成音声が、無機質に住所を繰り返す。

俺は自転車を止め、画面を見つめた。回覧板が回り切らなかったのか。それとも、誰かのエージェントが倫理検査中で、署名が弾かれたのか。

トオルは何も言わなかった。

空が、少しだけ白み始めていた。