潮の匂いはログに残らない

──平成0x29A年05月11日 07:00

平成0x29A年05月11日、朝七時。湾岸の来訪者ゲートは、開門前から潮と消毒液の匂いが混ざっていた。

私は第23観光ブロック外縁の「浮桟橋ミュージアム」受付で、入場の生体認証端末を拭いている。指紋と静脈と虹彩、来訪者は笑いながら「やりすぎ」と言うけれど、ここは“国”の顔だ。順番が乱れると、連鎖のどこかで手続きが詰まる。

胸ポケットのガラケーが震えた。折りたたみの液晶には、iモードみたいな文字メニューの上に、半透明のAR広告が重なっている。「平成の朝食セット/配信サブスク同梱」。意味は分からないが、誰も気にしない。

『おはよう。左手首、乾燥してる。認証落ちるよ』
耳の奥で、父の声がした。父・真田徹、享年六十一。漁協の事務をして、海に落ちて戻らなかった。今は私のエージェントとして、妙に細かい。

「分かってる」私はハンドクリームを塗り、端末に自分の静脈を一度通す。緑の輪が点灯し、今日の当番権限が私に滑り込む。

バックヤードに積まれた乾電池の山が目に入った。単三、単四、角形九ボルトまで。来訪者向けの音声ガイド、匂い再現デバイス、古い展示のMDプレーヤー――電池で動くものが多すぎる。

開門と同時に、最初の団体が入ってきた。修学旅行の名札、でも制服はどこか古いブレザーで、手には最新の翻訳レンズ。混線した平成が、ここにもいる。

「次の方、手のひらをこちらに」

生体認証は流れるように進む。ところが、四人目の中年男性で端末が赤く鳴った。

《遺伝子ネットワーク照合:微細不一致(0.003%)/儀礼的保留》

私の喉が乾く。遺伝子ネットワーク――誰も普段は意識しないのに、こういう時だけ表に出る。画面の隅には、薄い菊の紋様が一瞬だけ点滅して消えた。

男性は笑っている。「え、俺、入れないの?」

『落ち着け。保留は拒否じゃない。手続きの枝が迷ってるだけだ』父が言う。

私はマニュアルの“来訪者対応・遺伝子系エラー”をガラケーで開く。ボタンを押すたび、カチカチと平成の音がする。そこへ別の通知が割り込んだ。

《第0x73A11内閣ユニット:臨時閣議レビュー要請/差分断片:来訪者ゲートの保留閾値を+0.002%緩和》

『誰かが総理になって、五分で弄ろうとしてるな』父が鼻で笑う。

「こっちは現場なんだよ……」

私の端末にも、小さな署名欄が出る。《現場ステークホルダー意見:賛否》とだけ。党ドクトリン署名が必要、と薄く表示されるが、鍵穴の形はもう擦り切れている。解読が半ば公然、とはこういうことか。

私は賛成も反対も押せず、代わりに男性を誘導した。「すみません、こちらで“匂い確認”だけ」

匂い再現デバイスは、展示の一部だ。来訪者の嗅覚に「平成の海辺」を流し込む。潮、焼きそば、日焼け止め。機械のカートリッジは電池式で、残量警告が点滅していた。

乾電池の山から単三を二本、素手で掴む。妙に温い。誰かがさっきまで握っていたみたいに。

『その匂い、父さんは嫌いだったな』

「嫌いじゃなくて、怖かったんだろ」私は小声で返しながら、電池を差し込む。

デバイスが起動し、男性の前に小さなノズルが開いた。ふわりと潮の匂いが立つ。次に、魚市場の氷、古い木の桟橋、そして――一瞬だけ、線香の匂い。

男性が眉をひそめた。「今の、葬式みたいな……」

端末が鳴り、赤から黄に変わった。

《遺伝子ネットワーク照合:不一致解消(匂い刺激による自律補正ログ)/通過許可》

私は息を止めていたのに気づく。

『見たか。微細な異常は、“記憶の糊”で直ることがある』父が言った。『ネットワークは血だけじゃない。怖いけど、悪い話ばかりでもない』

男性は肩をすくめ、「変な朝だな」と言って笑い、団体に追いついていった。

ガラケーがまた震える。例の差分断片は《非承認》に流れたらしい。五分の総理は、どこかで失敗した。

私は乾電池の山を見下ろし、一本だけラベルの剥げた電池を拾った。誰の手の温度ももう残っていない。

それでも、さっきの線香の匂いは、確かに“通れた”。

『海、見に行くか。昼休みでいい』父が言う。

「うん」私は端末を拭き直し、次の来訪者に手のひらを差し出してもらう。

潮の匂いはログに残らない。でも、残らないものが、今日は少しだけ役に立った。