磁気テープの墓標、あるいは五分間の特権
──平成0x29A年04月17日 18:00
夕方六時の時報が、処理場の錆びついたスピーカーから「夕焼け小焼け」を流し始める。平成エミュレートの典型的な演出だ。空は薄汚れたオレンジ色に染まり、目の前には黒いプラスチックの山――VHSテープの残骸が積み上がっている。
「兄貴、またそれ? 磁気テープなんてシュレッダーにかけるだけ時間の無駄だよ。分子分解炉に直行させればいいのに」
耳の奥で、律の声がした。十四歳で病死した弟の、少し生意気な頃の人格を移植したエージェントだ。彼は視界の隅に、青白いワイヤーフレームの姿で浮いている。
「そうもいかないんだよ。党ドクトリンのアルゴリズムが、物理的な『記憶の抹消』をプロセスに組み込んでいる。署名の断片を物理的に裁断しなきゃ、リサイクル・サイクルが回らないんだ」
俺はため息をつき、手元の端末で『時間貸しCPU』の追加契約を承認した。処理場の低スペックな計算機では、物理破砕とデジタル署名の照合を並行して行うには足りない。近隣の空いているスマート家電から演算リソースを数分だけ借り受ける。十円にも満たない電子決済が走り、処理速度がわずかに上がった。
山の中から、ボロボロの「紙の地図」が混じって出てきた。旧・東京都の広域地図だ。誰かがVHSのケースに忍ばせていたのだろう。今の時代、位置情報は網膜に投影されるビーコンを追うだけだが、かつての人間はこんな平面の情報を頼りに歩いていたらしい。
その時、視界が真っ赤な通知で埋まった。
【緊急告知:第0xDF4A内閣ユニット・内閣総理大臣に任命されました。任期:300秒】
「げっ、またかよ」
「おめでとう兄貴。今日で三回目だね。人気者じゃん」
律が茶化すように笑う。俺は作業用のグローブを脱ぎ、網膜ディスプレイに並ぶ「政策変更リクエスト」の差分断片をスワイプした。党中央ドクトリンに基づくアルゴリズム署名を、俺の生体認証で承認していく作業だ。大抵は「区道104号の街灯照度を0.2%下げる」といった、どうでもいい最適化ばかりだ。
だが、最後の一つに手が止まった。
『リクエスト:位置情報ビーコンID: JP-772-KJO の永久抹消および物理廃棄の承認』
律が急に沈黙した。彼もそのIDを知っているはずだ。かつて、俺たちの実家があった場所に埋め込まれていた「家系遺伝子ネットワーク」の固定ビーコン。両親が死に、家が解体され、今はもうこの処理場の『廃棄待ちコンテナ』の中にあるはずの部品だ。
「兄貴、これ……」
「ああ。これを承認すれば、俺たちの家があったという唯一の座標証跡が消える。遺伝子ネットワークからも、僕たちの名前が薄くなる」
任期は残り百二十秒。俺は手元にあった「紙の地図」を広げた。掠れたインクの中に、その座標を探す。指先が微かに震えた。VHSの山の中から、一個のビーコンが転がり落ちる。埃を被った、小さな灰色の箱。かつてはこの中に、一族の薄い皇室遺伝子の連なりを証明するパルスが刻まれていた。
俺は総理大臣の権限を使い、リクエストを『却下』した。それだけではない。ドクトリンの隙間を突き、そのビーコンを『重要文化財的継承物』として再定義し、非公開の暗号鍵でロックをかけた。アルゴリズムが「社会安定に寄与しない」とエラーを吐きかけたが、借り受けたCPUの演算パワーをすべてつぎ込み、無理やり署名を完了させた。
【任期終了。お疲れ様でした】
通知が消え、俺はただの仕分け員に戻った。夕闇が深まり、処理場に静寂が戻る。
「無駄なことするなあ、兄貴は。そんなの、誰も覚えてないのに」
律の声は、どこか嬉しそうだった。俺は拾い上げたビーコンを、作業着のポケットに突っ込んだ。次の総理大臣が誰になるかは知らないが、少なくともあと五分間は、俺たちの居場所は世界の隅っこに刻まれたままだ。
シュレッダーが、古い磁気テープを飲み込む音だけが響いていた。