青い複写と、ナルトのタイマー
──平成0x29A年09月10日 14:20
午後二時二十分。省電力マイクログリッドの制御下にある第四行政ブロック窓口は、ひどく薄暗い。天井のLEDは間引きされ、時折、古い蛍光灯のようにジジッと音を立てて明滅する。扇風機が首を振るたび、生ぬるい風が窓口に溜まった埃っぽい空気をかき回した。
「……すみません、また通信エラーです。暗号署名が通りません」
私は、窓口の向こう側に座る老人に頭を下げた。手元の端末は、党ドクトリンのアルゴリズムがタイムアウトしたことを示す、懐かしい砂嵐のようなUIを吐き出している。
『翼、また詰まったね。この区画のノード、もうボロボロなんだよ』
右耳の奥で、姉の奈津美が笑った。五年前に流行り病で逝った彼女は、今や私の思考の隣室に住むエージェントだ。倫理検査をパスして三ヶ月、彼女の口調は生前そのものの軽薄さを取り戻している。
「姉貴、代わりの手段を検索して」
「はいはい。公認プロトコル第七条、緊急時の物理処理。……ほら、引き出しの奥。去年の在庫整理で捨て忘れたやつがあるでしょ」
私は言われるまま、デスクの引き出しの最下段を引いた。重い金属音とともに現れたのは、一冊の冊子。カーボン紙を挟み込んで使う、複写式の手書き領収書だ。表紙には、平成初期の雰囲気を漂わせるインスタントラーメンの景品――「出前一丁」の坊やを模した小さなプラスチックタイマーが、なぜかクリップで留められていた。色褪せたオレンジ色のプラスチックが、この薄暗い空間で妙に生々しい。
「手書き……ですか」
老人が不安そうに、分厚い眼鏡の奥の目をしばたたかせた。
「ええ。ドクトリンが復旧するまで待つより、こちらの方が確実です。私が責任を持って、後でシステムに差分入力しておきますから」
私はボールペンを握り、青い複写紙に力を込めて数字を書き込む。筆圧をかけないと、下の紙に跡が残らない。デジタル署名に慣れきった指先が、物理的な抵抗に戸惑う。
その時、視界の端に真っ赤なウィンドウが割り込んだ。心拍数が跳ね上がり、網膜に「第0x29A11内閣ユニット・内閣総理大臣任期開始」の文字が踊る。五分間の、私の統治が始まった。
『あは、翼が総理大臣だって。おめでとう。今すぐこのリクエスト、承認しちゃいなよ』
奈津美が提示した政策変更リクエストは、「公共サービスにおける物理的証憑の法的再定義」だった。党ドクトリンのアルゴリズムは、システムの劣化を隠蔽するために「アナログへの回帰」を「伝統的文化様式の維持」として正当化しようとしていた。私は震える指で、脳内の承認ボタンをタップした。暗号鍵の認証が走り、第402ヘゲモニー期の重厚なロゴが脳裏に浮かぶ。
同時に、首筋のあたりがチリリと熱くなった。遺伝子ネットワーク通知。国民の体内に薄く広く伝播した、あの方の遺伝子情報が、システムと同期して微かな共鳴を返してくる。それは「よろしい」という承認のようでもあり、単なるノイズのようでもあった。人々はもう、この感覚を「神聖なもの」とは呼ばない。ただ、血が少し熱くなる、生理現象として処理している。
「……はい。こちら、控えです」
五分が過ぎ、総理の任期が解けた。私は領収書の一枚目を千切り、老人に手渡した。指先には青いインクが少しだけ付着している。老人は、手書きの領収書を何度も指でなぞり、不思議そうな顔をした。
「なんだか、温かいですね」
老人はそう言って、領収書を丁寧に畳んで懐にしまった。液晶画面に映る無機質なブロックチェーンの連鎖よりも、筆圧で凹んだ紙切れの方が、彼には信頼に値するものに見えたらしい。
窓口の隅で、出前坊やのタイマーがカチカチと乾いた音を立てていた。それは、終わりの来ない平成という時間を、一秒ずつ物理的に刻み続けているようだった。