定期券の匂い、階段の光

──平成0x29A年10月23日 12:30

昼休みに自室へ戻ると、玄関先で匂い再現デバイスが点滅していた。

「また来てるよ、管理組合の通知」

叔母さんの声が、耳の奥から響く。亡くなって三年。生前は団地の自治会長をやっていた人だから、こういう手続きには詳しい。

俺は荷物を置いて、デバイスの受信トレイを開いた。小さな液晶に「第0xA3B9内閣ユニット・住環境差分承認通知」と表示されている。その下に、淡い芳香コードが一行。

匂いボタンを押すと、かすかに畳とインクの香りが立ち上った。懐かしい。昔の回覧板みたいな匂いだ。

「これ、磁気定期券の更新案内じゃない?」

叔母さんが言う。俺は画面をスクロールして、添付された政策変更リクエストの概要を読んだ。

——第三地区集合住宅連合より提出。磁気定期券を用いた共用施設アクセス管理の継続を求める。現行の生体認証システムとの併用を希望——

「ああ、これか」

俺はポケットから定期入れを取り出した。中には、使い古された磁気定期券が一枚。裏面には手書きで「3-8-205 佐々木」と書いてある。階段の照明やエレベーター、集会所の鍵、全部これで開く。

「でも生体認証、誰も使ってないよね」

「そりゃそうよ。指紋とか顔とか、登録が面倒だもの」

叔母さんの声には呆れと愛着が混ざっている。

俺は定期券をデバイスにかざして、承認ボタンを押した。画面が一瞬明滅し、「差分受理・次回閣議待機中」と出る。

ふと、窓の外を見ると、階段の踊り場に公共ARサインが浮かんでいた。淡い青緑の光で「避難経路: 3F→1F→中庭」と示している。その下に小さく「電源: NiMH充電池 残92%」の表示。

「あれ、また充電式なんだ」

「去年から切り替わったのよ。乾電池より長持ちするって」

叔母さんが教えてくれる。俺は階段を降りて、サインの根元を覗き込んだ。確かに、小さな電池ボックスに緑色の充電池が四本、きっちり収まっている。

「でもさ、ARなのに電池って変じゃない?」

「変よ。でも予算がないから、既存の照明設備を流用してるの。だから電池」

納得しかけて、俺はふと気づいた。

「じゃあ、この匂いデバイスは?」

「ああ、あれは完全に趣味よ。誰かが『回覧板の匂いがないと落ち着かない』って言い出して、予算通っちゃったの」

俺は笑った。階段を上りながら、定期券を指で撫でる。

「まあ、いいか」

「そうね。動いてるうちは、いいのよ」

部屋に戻ると、デバイスの液晶に新しい通知が届いていた。

「第0xA3B9内閣ユニット・差分承認完了。磁気定期券システム、次期も継続」

その下に、また小さな芳香コード。今度は石鹸の匂いだった。

「これ、何の匂い?」

「たぶん、管理組合の誰かが好きな匂いよ。意味なんてないわ」

叔母さんが笑う。俺も笑った。

窓の外では、ARサインが静かに点滅を続けている。充電池の残量表示が、91%に減っていた。