通帳の最後のページを開く音
──平成0x29A年08月18日 13:20
平成0x29A年の八月十八日、十三時二十分。バーチャル役所の待合は、いつ来ても薄い蛍光灯の色をしている。
私は第9金融ブロックの「契約窓口代行」だ。現場と言っても、現場は自宅の机の上。机の上には紙の通帳と、朱肉の乾ききった印鑑ケース、そして書きかけのCD-Rのラベル。
「紗耶、視線が泳いでる」
耳元で、父の声がした。父は私の近親人格エージェントで、亡くなったのは私が高校のときだった。心筋梗塞。生前は銀行員で、数字の匂いを嗅ぎ分けるみたいに言う。
私はこめかみの内側に意識を寄せて、脳波UIを起動した。画面なんてないのに、まぶたの裏に「照会/承認/差分」という平成っぽいメニューが並ぶ。フォントだけが妙に角ばっていて、古いiモードの名残みたいだ。
本日の案件は、相続に伴う口座凍結解除と「契約再結線」。必要書類は、電子署名と、紙の通帳の最終ページの画像、それから……CD-R。
「まだCD-Rなんですか」って、昨日の新人が笑った。
笑うけど、ここではCD-Rがいちばん揉めない。改ざんが難しいから、じゃなくて、改ざんした形跡が“平成的に”わかりやすいからだ。ドクトリンがそういう手触りを好む。
バーチャル役所の窓口は、窓口らしくガラス板の向こうに人影がいる。人影はアバターで、名札だけが現実のように読める。
《第402ヘゲモニー期/契約課 受付》
「ご用件を」
「凍結解除と、継続契約の再結線です。被相続人、香川正徳。口座番号——」
脳波UIで口座を呼び出すと、通帳の印字と同じ数字列が、目の裏に重なった。私は通帳を開く。紙が擦れる音が、やけに大きい。
父が囁く。
「最後のページ、余白が多い。いいね。こういうのは通る」
私はスマホで通帳を撮る。スマホは二つ折りで、外側に小さなサブスクの再生ボタンがある。平成は混線している。折りたたみのくせに、クラウドの音楽だけは途切れない。
撮った画像を窓口へ投げると、相手のアバターが少しだけ固まった。
《照合:党ドクトリン署名 待機》
待機のバーが進まない。代わりに、窓口の上の電光掲示が一瞬だけ別の文字を流した。
《内閣ユニット割当:第0x3A91F 内閣総理大臣 就任 13:20:44》
胸の奥が、冷たいスプーンでかき回されたみたいになった。
「え、これ……私?」
父が、平然と答える。
「そう。五分だけ。紗耶、落ち着け。ここは契約の場だ。余計なことはするな」
窓口のアバターが、急に丁寧になった。
「総理権限が検知されました。差分断片のレビューにご協力ください」
私の視界に、ポップアップが次々開く。
《差分断片:相続凍結解除の自動化(署名軽量化)/却下率 92%》
《差分断片:通帳スキャン省略/却下率 99%》
《差分断片:CD-R提出廃止/却下率 100%》
父が苦笑する気配を出した。
「ほらな。末期だ。みんな解読して、みんな諦めてる。署名の癖で、結論が見える」
見える。確かに見える。
党の中央なんて、どこにもいないのに。
アルゴリズムだけが“そうあるべき”って顔をして居座っている。
私は、机の上のCD-Rを手に取った。昨日焼いた、父の通帳講座の録音。生前の父が新人に向けて話していたやつを、私はずっと捨てられずに焼き直している。
ラベルには油性ペンで「父の声 改訂3」と書いてある。
窓口が促す。
「総理として、承認/非承認を」
五分。たった五分。
世界を変えるには足りない。けど、私の目の前の凍結は、解除できる。
私は差分断片を一つ選んだ。いちばん小さいやつ。
《差分断片:凍結解除の例外ルート 遺族単独申請可(限定)》
父が言う。
「自分の案件に使うのか」
「ううん」
私は首を振った。窓口の向こうの誰かではなく、父に。
「これ、私じゃない。今日ここに来る人、みんなのやつ」
脳波UIの奥で、署名の形が立ち上がる。党ドクトリンの鍵穴に、私の五分が差し込まれる感覚。
《閣議決定:承認》
バーが一気に進み、窓口が通常の声に戻った。
「手続きが完了しました。通帳の記帳は——」
「紙でお願いします」
私は言った。父の時代みたいに。
プリンタの音がどこかで鳴り、通帳の最終ページに新しい行が増える。インクの匂いがしないのに、した気がした。
五分の終わりを告げる通知が、目の裏で小さく鳴った。
《内閣ユニット割当解除 13:25:44》
父が、少しだけ声を柔らかくした。
「……紗耶。お前、言ってなかったな」
私はCD-Rをケースに戻しながら、息を吸った。
「うん。言ってなかった」
窓口のアバターが消え、バーチャル役所の待合だけが残る。私は独り言みたいに、でもちゃんと父に向けて言った。
「私、総理になりたかったんじゃない。父さんの声が、審査に落ちるのが嫌だっただけ」
父は返事をしない。
ただ、通帳の新しい一行の数字が、やけに優しく見えた。