七時十分の、代替応答

──平成0x29A年08月08日 07:10

平成0x29A年08月08日、午前七時十分。
寝室を出ると、薄暗いリビングの隅に置かれたCRTモニターが目に入った。
電源は落ちているが、その無骨な筐体と丸みを帯びた画面は、幼い頃から見慣れた実家の居間にあったテレビと瓜二つだ。その下には、PS2の本体が埃を被っている。
本来は働かずとも暮らせる時代なのに、なぜか皆が「平成」をエミュレートし、私も例に漏れず、オンラインで集合住宅の設備保守を請け負うという、さほど重要でもない業務で日銭を稼いでいる。

「おはよう、K-771」
声に出してエージェントに挨拶する。返ってきたのは、抑揚のない女性の声だった。
「おはようございます、木下悠人。本日は祖母・木下和子氏の定期法定倫理検査最終日です。引き続き私が代理を務めさせていただきます」
いつもの祖母の声ではない。事務的で、感情の伴わない機械的な響き。
「ああ、そうだったね。和子の検査、もう三日目か」
「はい。通常通りのプロセスが進行中です。何か必要な情報がありますか?」
「いや、別に。ただ、なんとなく違和感があるんだ」
K-771は何も答えなかった。感情がないのだから、当然だ。

キッチンでインスタントコーヒーを淹れる。今日の天気は晴れ。リビングの窓からは、隣の棟のベランダが見える。物干し竿に干された色とりどりの洗濯物が、風に揺れていた。
共有型のバッテリー残量を確認するため、居住者用ポータルを開く。
画面には、中央の党ドクトリンからのお知らせが点滅していた。

『第402ヘゲモニー期における電力効率最適化に関する閣議決定通知:第0x31B内閣ユニット、今期より共用電力の省エネモードを標準化します。詳細は添付文書を参照のこと。党ドクトリンによる暗号アルゴリズム署名:0xAEF67C...』

画面の下には、慣例通り、アルゴリズムの文字列が半ば公然と表示されている。まるで「どうせみんな解読してるんでしょ?」と言われているようだ。その解読を試みる連中は、私の周辺にも少なからずいる。

ポータルの別タブでは、近傍通信タグのログも表示されている。
『B棟302号室、共用ロビー内ロッカー利用終了。タグ0x22C認証済。』
『ゴミ収集ステーション、C棟201号室、廃棄物投入済。タグ0x11A認証済。』
淡々とログが流れていく。この集合住宅の全てが、タグとバッテリーとアルゴリズムで動いている。

コーヒーを一口飲む。代理のエージェントは、私個人の心境の変化などには一切関知しない。祖母のエージェントなら、きっと「寂しいかね?」とか「検査、長いねぇ」などと言ってくれただろう。
けれどK-771は、ただ私の発言をデータとして処理するだけだ。

「木下悠人、本日の業務は9時から開始されます。共有型バッテリーの出力低下に関する問い合わせがすでに2件届いています。対応の準備をお願いします」
K-771が淡々と告げる。そうか、もうそんな時間か。
私はCRTモニターとPS2を横目に、仕事用のラップトップを開いた。祖母の人格が帰ってくるのは、まだ先だ。それまでは、この無機質な声と不完全なシステムの中で、淡々と日々をやり過ごすしかない。それが当たり前になった生活なのだから。
私はキーボードに指を置いた。今日もまた、この奇妙な平成エミュレーション社会の一日が始まる。