砂嵐の連絡網と、午前四時半の不在証明
──平成0x29A年07月13日 04:30
午前四時三十分。枕元の端末が、かつての黒電話を思わせる下品なベルの音を響かせた。センサーダストが青白く発光し、視界の端に「第十四次広域避難訓練・動員発令」の文字が踊る。
「徹くん、起きて。連絡網を回さないと」
耳元で、死んだ妻の奈緒が囁く。彼女の近親人格エージェントは、昨日から予定されていた法定倫理検査の延期と、記憶補助データの更新不備により、少しばかり声にノイズが混じっている。
「わかってる。今、ウォレットを確認してるんだ」
僕は重い体を起こし、腕に埋め込まれたデジタル円ウォレットを起動した。炊き出し用の一万五千円分の仮想通貨がチャージされている。平成初期の「非常時」をエミュレートしたこの訓練では、この電子マネーで配給品を買う儀式が義務付けられていた。
廊下に出ると、低音の効いた深夜ラジオの音声がスピーカーから流れてくる。党ドクトリンが推奨する『平成の静寂』を演出するための環境音だ。ナビゲーターが穏やかな声で、三百年前に滅びたはずの流行歌を紹介している。
「徹くん、学校の連絡網。次の石川さんの家、まだ繋がらないわ」
奈緒が焦った声を出す。僕の視界には、九十年代のiモードを模した粗いドット絵のUIが表示されていた。一人一人に「確認」を求め、次の人間へ回す。この非効率な連鎖こそが、ブロックチェーン統治下の社会における『絆』の証明なのだという。
その時、端末が激しく振動した。通常の訓練通知ではない。赤い警告灯が網膜を焼く。
《第0xBD22内閣ユニット:内閣総理大臣に選任されました。任期:300秒》
「うわ、最悪だ。このタイミングでかよ」
僕は階段を降りながら、目の前に展開された閣議決定の「差分断片」を弾く。補助エージェントである奈緒が、本来ならここで政策の要約をしてくれるはずだった。だが、更新不備のせいか、彼女の言葉は支離滅裂になっていた。
「……雨が、ひどいの。徹くん、川を見に行かないで。ドクトリン署名、実行して。あの日の避難経路、アルゴリズムが書き換わってる……」
「奈緒、落ち着け。これは訓練だ」
目の前には、第十四居住ブロックの『排水システム全開』というリクエストが届いていた。現在の天候は晴天。訓練メニューの一環だろう。僕は深く考えず、奈緒のノイズ混じりの「署名して」という指示に従い、暗号化署名をスワイプした。
五分間の任期が終わるのと同時に、校庭へ続く避難路に到着した。近所の住民たちが、眠そうな顔で平成時代のジャージを着て集まっている。だが、何かがおかしかった。
足元を流れるセンサーダストが、青からどす黒い赤へと変色していく。深夜ラジオの音声が途切れ、激しい濁流の音に変わった。学校の連絡網からは、悲鳴のようなエラーログが絶え間なく流れ込んでくる。
「奈緒、これ、どういうことだ?」
返事はない。ただ、彼女が最後にアクセスしたログだけが残っていた。彼女は更新不備のバグで、自分が死んだ三百年前の豪雨災害の記録を、現在の排水システムの設定値に上書きして署名させていた。
校庭の向こう、コンクリートの防壁から、ありもしない水が溢れ出す幻覚が見えた。いや、それは幻覚ではない。ドクトリンが『かつての災害』を忠実に再現しようと、街のホログラムと物理障壁を歪め始めているのだ。
「避難、成功したわね……」
奈緒の満足げな声が、砂嵐のようなノイズと共に消えた。
快晴の夜空の下、僕たちの街は、存在しない濁流に飲み込まれようとしていた。