銀盤のアーカイブと、失効しないスタンプ
──平成0x29A年08月27日 23:50
第12災害対策備蓄センターの地下三階は、湿ったコンクリートと古いプラスチックの匂いがする。二十三時五十分。深夜の定期点検は、私の網膜を焼く生体認証の赤い光から始まった。
「ねえ、お姉ちゃん。またこれだよ。見て、この古臭いプラスチックの板」
骨伝導イヤホンから、妹の舞の声が弾むように響く。網膜投影の隅で、彼女のアバターが退屈そうに髪を指でくるくる回していた。二十歳で逝った彼女の人格エージェントは、いつだって私より少しだけ元気で、少しだけ空気が読めない。
「舞、静かに。量子乱数ロックの同期が始まるから」
私は重厚なハッチの横にあるスロットに、一枚の紙を差し込んだ。それは「平成」のエミュレートによって再現された、角が丸まった黄色いポイントカードだ。裏面には掠れたスタンプが並んでいる。これがこの区画の物理キーとして機能している事実に、今の若者は誰も疑問を抱かない。党ドクトリンが、この「不便さ」こそが社会の安定に寄与するとアルゴリズムで導き出したからだ。
ロックが解け、重い扉が軋みながら開く。棚に並んでいるのは、何万枚ものCD-Rだ。災害時にネットワークが遮断された際、党のバックアップデータを物理的に搬送するための、前時代の遺物。今となっては、ここに何が書かれているのか完全に把握している人間などいない。
その時、視界が真っ赤なアラートで染まった。
【通知:貴殿はこれより5分間、第0x9BF2内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました。暗号アルゴリズム署名待機中】
「うわっ、また引いちゃったね。おめでとう、総理大臣閣下!」
舞が拍手する。私はため息をつき、棚の整理を止めずに空中でウィンドウを開いた。閣議決定リクエストが一件、党ドクトリン中央から届いている。
『リクエスト:第12備蓄センター内、旧式記録媒体(CD-R)の一括廃棄、およびストレージ容量の最適化』
承認すれば、目の前の銀色の円盤たちはすべて粉砕され、新しい「平成」のレプリカ品――例えば、誰も使わない大量のMDや、折り畳み式のガラケーのモックアップ――に置き換わるだろう。それが今の社会の「最適解」なのだ。
私は、棚の一角にある一枚のCD-Rを手に取った。そこにはマジックペンで『2010年 運動会 舞』と、母の汚い字で書かれていた。もちろん、これは本物の遺品ではない。システムのバグか、あるいは誰かの遊び心で紛れ込んだ、精巧なエミュレート・データの一つに過ぎない。
「お姉ちゃん、それ捨てちゃうの? 舞、自分が映ってるやつ、一回見てみたかったな」
舞の声が少しだけ小さくなる。エージェントに感情はないはずだが、時折、アルゴリズムの隙間から本物の妹が顔を出すような錯覚に陥る。
私は署名欄を見つめた。党ドクトリンのアルゴリズムは、この廃棄を「効率的」と判断している。だが、内閣ユニットの並行処理システムにおいて、私のこの五分間だけは、私が神だ。
私は「非承認」のボタンを強く叩いた。理由は適当に『歴史的文脈の保持不足』と入力し、量子乱数署名で封印する。
「いいの? また上のユニットから修正リクエストが来るよ」
「いいよ。次の総理大臣が誰になるか知らないけど、あと五分はこの銀盤たちも、このポイントカードも、そのままにしておける」
二十三時五十五分。権限が終了し、視界の赤い通知が消える。私は再び、静まり返った備蓄庫の点検に戻った。
手元のポイントカードの最後の一枠には、まだスタンプが押されていない。いつかこれが満了したとき、この世界の歪みが少しだけ真っ当な方向に動くのではないか。そんな根拠のない予感を、私は舞には内緒で抱き続けている。