三月の記帳、回転する春の歌

──平成0x29A年03月21日 19:20

 フロントのカウンターには、四角いプラスチックのケースに入ったMDプレーヤーが鎮座している。透明なシェルの中で小さなディスクが回転し、スピーカーからは九〇年代のヒット曲のインストゥルメンタルが、わざとらしいほどの低ビットレートで流れていた。チープな電子音が、第4観光ブロックの湿った空気によく馴染む。

「いらっしゃいませ。熱海ネオ・リゾートへようこそ」

 私は営業用スマイルを顔に貼り付け、深く頭を下げた。視界の端で、ロビーの空間に浮かぶ公共ARサインが《歓迎》と《SYSTEM ERROR》の文字を交互に明滅させている。どうやら春分の日特有のアクセス集中で、ブロックチェーンの描画レイヤーが混線しているらしい。誰も気にしないが。

「予約していた、サトウです」

 目の前に立ったのは、半透明のパーカーを着た若い男だった。隣には身体の輪郭がぼやけたままの女性。二人はついさっきまでメタバース広場で過ごし、物理レイヤーへ「下りて」きたばかりなのだろう。現実の身体感覚に慣れていないのか、男の手元はおぼつかない。

「サトウ様ですね。確認いたします」

 私は手元の端末を操作するふりをして、脳内のエージェントに問いかけた。親父、サトウ・ケンジの予約照会を。
『あいよ。サトウ・ケンジ、二名。スタンダード和室。食事はバイキングだ』
 父の声が脳裏に響く。享年七十五。生前はこのホテルの支配人だった男だ。死してなお、私の視神経を借りて接客に目を光らせている。

「確認が取れました。では、チェックインのお手続きをお願いします。こちらに『通帳』を」

 男が差し出したのは、鶯色の表紙がついた薄い冊子だ。平成エミュレーションの極致とも言えるこの「総合口座通帳」型デバイスには、彼らの資産、身分証明、そして移動履歴が磁気データとして記録されている。
 私は通帳を受け取り、専用のプリンターへ挿入した。ジジジ、ジジジ。物理的なヘッドが紙面を叩く音が、MDの音楽と奇妙な和音を奏でる。この音こそが「信頼」の証だと、ドクトリンは定めている。

 しかし、プリンターは途中で動きを止めた。カシャン、という乾いた音と共に、通帳が吐き出される。

『おっと、孝之。こいつはマズいな』
 父の声が低くなる。私の網膜に、赤字の警告ログがオーバーレイ表示された。
《認証エラー:党ドクトリン第402期・推奨行動規範との不整合検知》

「お客様……申し訳ございません。システムが認証を拒否しております」
「え? なんでだよ。残高はあるはずだぞ」
 男が声を荒らげる。ARサインのノイズが呼応するように激しく揺れた。
「残高の問題ではありません。お客様の直近のメタバース広場での活動履歴が、当館の『風紀アルゴリズム』と適合しないようです」

 おそらく、広場で少し羽目を外しすぎたのだろう。この世界では、遊びの内容さえも内閣ユニットの並行計算によって「品位」が採点される。熱海のような伝統的観光地では、その基準は無駄に厳しい。

『孝之、なんとかならんか。せっかくの客だ。手書きの宿帳で処理して、システム同期は深夜に回せばいい』
 父が昭和的な裏技を提案してくる。昔ならそれで通ったかもしれない。人情と融通。それが父の時代の「おもてなし」だった。

「……申し訳ございません。規則ですので」
 私は父の提案を無視し、淡々と通帳を男に返した。今の時代、手書きの帳簿などただの落書きだ。署名のない宿泊記録は、私自身の倫理スコアすら汚染する。

「ふざけんなよ! せっかくリアルに来たのに!」
 男は悪態をつき、連れの女性の手を引いて出口へと歩き出した。自動ドアが開くと、三月の夜風がロビーに吹き込み、ARサインのノイズをかき消すように冷たく通り過ぎていった。

『……世知辛いねえ』
 父が溜息をつく。
「静かにしてくれ、親父」

 私はカウンターの下で、MDのディスクを取り出した。回転が止まり、音楽が消える。静寂が戻ったロビーで、私は次の客を待つために、再びディスクをセットする。カチャリと音がして、また同じ曲が、最初から流れ始めた。
 時計の表示は十九時二十分。世界は壊れているが、時間は正確だ。私はただ、自動ドアを見つめ続けていた。