五分間の署名
──平成0x29A年 日時不明
液晶の蛍光灯が、また一本切れかけている。
天井のあの微妙なちらつきを見るたびに、僕は思う。交換申請出さなきゃ。でも管理ユニットへの差分リクエストは最短で三日かかるし、蛍光灯一本のために手続きフォームを開くのも面倒だ。
僕の仕事は、遺伝子ネットワークの保守管理だ。
具体的には、全国に薄く広がった皇室由来のマーカー遺伝子が正常に連鎖しているか、日次のログをチェックする。異常があれば報告する。ただそれだけ。異常があったことは、僕が担当になってからの六年間で一度もない。
「陽一。朝ごはん、食べてないだろう」
デスクの右端に置いたガラケーのスピーカーから、兄貴の声がする。僕のエージェント。三年前に事故で死んだ兄、宮前修二の人格。
「食べたよ。カロリーメイト」
「それは食事じゃない。母さんが生きてたら怒るぞ」
「兄貴に言われたくない」
ガラケーの背面にはプリクラが貼ってある。兄貴と僕が並んで写ったやつ。もう十年以上前のもので、端が剥がれかけている。
端末の画面にはiモード風のポータルUIが並んでいて、その右上に通知バッジが一つ。タップすると、ARレイヤーで書類が展開された。
——第0x7A2F1内閣ユニット。臨時総理大臣任命通知。宮前陽一殿。任期:本日09:14:00〜09:19:00。
「……また来たよ、これ」
「何だ?」
「総理」
「ああ」と兄貴が言った。「俺のときはドクトリン署名で弾かれて何もできなかったな」
兄貴が生きていた頃にも一度回ってきたらしい。五分間だけの内閣総理大臣。僕は二回目だ。前回は寝ている間に任期が過ぎた。
09:14。
画面が切り替わる。閣議ダッシュボードが開いて、政策変更リクエストが三件、キューに入っていた。
一件目、地区照明の自動更新間隔を三日から一日に短縮する提案。——蛍光灯、と僕は思った。承認ボタンに指を伸ばす。
「署名が要るぞ」と兄貴。
そうだ。党ドクトリンのアルゴリズム署名。僕は補佐パネルを開いた。兄貴のエージェントが署名生成を試みる。
十五秒。三十秒。
「——通ったぞ」
署名が生成された。あっさりと。かつては誰にも解けなかったはずのアルゴリズムが、六年落ちのガラケーの処理能力で突破できる。
承認。
二件目。学校給食における麦茶の温度既定の改定。これも署名が通る。承認。
三件目。遺伝子ネットワーク保守要員の配置基準見直し——僕の仕事のやつだ。要約を読む。「異常発生率の統計的低さに鑑み、常勤保守を廃止し、自動監視への完全移行を提案する」。
僕は画面を見つめた。
「陽一」
「わかってる」
署名は通る。ボタンを押せば、僕の仕事はなくなる。
09:17。残り二分。
働かなくても暮らせることは知っている。でもこのデスクと、ちらつく蛍光灯と、兄貴の声が出るガラケーと、毎朝のカロリーメイトが、僕の朝を朝にしている。
09:18。
「……非承認」
僕は押した。兄貴は何も言わなかった。
09:19。任期終了。画面がポータルに戻る。
天井の蛍光灯がちらつく。一件目を承認したから、明日には替わるかもしれない。
ガラケーの画面が暗くなり、待受けに戻った。ドット絵の猫が、永遠に毛糸玉を追いかけている。
「兄貴」
「何だ」
「カロリーメイト、もう一本食べていいかな」
「好きにしろ」
その声が少しだけ笑っている気がして、僕はデスクの引き出しを開けた。