バックヤードにだけ鳴るチャイム

──平成0x29A年05月12日 10:20

平成0x29A年05月12日、10:20。レジの裏のバックヤードは、表の売り場より空気が重い。段ボールの糊の匂い、冷蔵庫のコンプレッサが唸る低い音、床を舐めるように走るロボ清掃員のブラシの擦過音。

「作業者カナ、回覧板。次、あなた」

耳の内側で声がした。亡くなった姉の人格エージェント——葛城 玲奈。私がピッと片耳の骨伝導を叩くと、姉はいつもの調子で段取りを並べる。

棚の端に、紙の回覧板がゴム紐でぶら下がっている。『第402ヘゲモニー期・衛生備品の節約に関するお願い』と印字され、下にびっしりと名字のハンコ欄。もう何人かが朱肉の匂いを残していた。

私はボールペンで受領の丸を付け、薄い紙を指でなぞった。紙は安心する。電源が落ちても残るから。

そのとき、ポケットのiPodが小さく震えた。再生中の曲が一瞬途切れ、白いノイズが挟まる。私は充電口の接触が悪いのだと思い、ケーブルを押し込む。平成の頃から使っている、という体で売られている復刻モデル。ストリーミングはイヤで、私はこれに手持ちの曲を入れている。

「……カナ、今、変な割り込み」

姉の声が、少し遅れて届く。遅延は珍しい。

バックヤードの壁面端末が、勝手に点灯した。薄いブラウン管風のUIに、淡い青のポップアップ。

【通知】遺伝子ネットワーク:皇統分布メッシュ更新
あなたの近傍クラスタに「儀礼要請」発生の可能性(低)

私は思わず笑いそうになった。皇統とか、普段の生活ではまず出てこない。低、って何だ。低なら黙っててくれ。

「売り場出る前に、これだけ」

姉が言い、端末に別のウィンドウが重なった。

【内閣ユニット招集】第0x7C1A4 内閣ユニット
役職:内閣総理大臣(暫定)
任期:5分
議題:『バックヤード衛生ログの紙運用差分』承認/否認
党ドクトリン署名:要

私は固まった。

「私、いま……総理?」

声に出すと、ロボ清掃員が私の靴先で止まり、ピッ、と小さく鳴った。障害物認識。まるで聞いていたみたいに。

「そう。落ち着いて」姉はすぐに言った。「差分断片だよ。今の制度と、ちょっと違う運用の提案。いつものやつ」

いつもの、って言うけど、私のいつもは商品の検品と補充だ。いきなり国家。

端末には、誰かが送ってきた文章が貼り付いている。

『提案:衛生ログを紙の回覧板と連動し、署名を手書きへ移行。理由:端末ログ改ざん疑惑。対象:第12居住ブロック小売施設バックヤード』

改ざん疑惑。つまり、うちの店。

「否認したら?」

「党署名が必要。否認でも同じ」姉の声が、いつもより乾いている。「それと……この差分、変。紙に戻す理由が、表向きは衛生。でも実際は——」

姉が言い淀んだ瞬間、iPodがまたノイズを吐いた。曲の代わりに、男の声が混じる。

『——ドクトリン整合、確認。署名者、葛城カナ。』

私は背筋が冷えた。私は今、しゃべっていない。姉でもない。端末のスピーカーでもない。iPodのイヤホンから、確かに聞こえた。

「カナ、切って。音、切って!」

姉が叫ぶ。私は慌ててホールドを入れるが、古いスライダは固く、爪が滑った。

端末の画面ではカウントダウンが始まっている。04:12、04:11……。

【党ドクトリン署名】照合中……

「姉ちゃん、署名って、どうやるの」

「しない。今はしない」

姉が言うのに、私の指は勝手に動いた。端末の下にある物理キー——『承認』。赤いキーキャップは、誰かが交換したのか新品みたいに艶がある。

ロボ清掃員が、私の足元でぐるりと回り、床の汚れを吸い取っていく。ブラシが回覧板の落ちた紙片を吸い込みかけ、私は反射で拾った。紙の端が、妙に湿っている。

【承認】

押した。

押した瞬間、端末の背景が一度真っ白になり、次の表示が出た。

【閣議決定】衛生ログ紙運用差分:承認
適用:即時
署名:党ドクトリン(代理)

代理。

「……代理って何」

姉の声が返らない。骨伝導が無音になった。耳の奥に、空洞だけが残る。

代わりに、遺伝子ネットワークの通知がもう一度弾けた。

【儀礼要請】発生の可能性(中)へ更新
対象:あなた/近傍クラスタ

私は回覧板を見た。さっきまで『衛生備品の節約』だった題字の下に、細い追記が浮かんでいる。

『回覧:総理任期中に発生した署名は、皇統メッシュへ反映されます』

誰がこんな文を、いつ印刷した。

バックヤードのドアの向こうで、売り場の入店チャイムが鳴った。いつもと同じ、軽い音。

ロボ清掃員が、私の足元に小さな何かを吐き出した。吸い込み損ねた紙片——いや、紙じゃない。薄いフィルムのラベルだ。

そこに、私の名字が印字されていた。旧字体で。

私はiPodを握りしめ、電源を落とした。落ちない。

イヤホンから、さっきの男の声が、曲の拍に合わせて囁いた。

『次の五分も、よろしく。』