朝靄のディスク、金木犀のパケット
──平成0x29A年08月28日 07:50
クリックホイールを親指でなぞり、朝に似合う曲を探す。白いイヤホンから流れ込むのは、もう何百年も前のミュージシャンの声。iPodのつるりとした背面が、夏の朝の湿気で少しだけ曇っていた。
『兄貴、またそれ聴いてんの? いい加減、新しいプレイリスト作ればいいのに』
ヘルメットの中で、弟の声が響く。隼人(はやと)だ。十年前に死んだ、俺の唯一の弟。
「うるさい。これは朝の儀式なんだよ」
『儀式ねえ。どうせ今日の依頼も、ルーターの再起動で終わりだって』
軽口を叩きながら、電動バイクを古い団地の駐輪場に停める。平成0x29A年、夏の朝。むわりとした生温かい空気に、遠くの焼却施設の匂いが混じっていた。
今日の依頼は、第14居住ブロック、C-7棟402号室。通信障害。
呼び鈴を鳴らすと、ゆっくりとドアが開き、腰の曲がったおばあさんが顔を出した。
「まあ、ご苦労さまです。どうぞ、汚いところですけど」
通されたリビングには、懐かしい匂いが満ちていた。いや、違う。匂い再現デバイスが、何かを焦がしたような、不快なノイズ臭を微かに放っている。
「昨日から、何も繋がらなくなってしまって」
おばあさんは力なく笑い、古びた光コンセントを指差した。
俺はツールボックスを開け、診断ツールを接続する。物理的な断線や機器の故障じゃない。信号は端末まで届いている。なのに、その先でパケットが詰まって、無限にループしているようだった。
『兄貴、見て。承認リクエストのログ。異常な量の署名エラーが出てる』
隼人が、俺の網膜に直接ログデータを投影する。
『これ、第218462内閣ユニット宛だ。しかも、使われてる暗号鍵、半年前に失効した非公式のやつ……』
視線を巡らせると、部屋の隅に置かれた旧式のデスクトップPCが目に入った。その横には、外付けのフロッピーディスクドライブ。まさか。
「おばあさん、これは……」
俺が尋ねると、彼女は観念したように、小さな声で話し始めた。
「……主人のデータなんです」
亡くなったご主人は、人格のエージェント化を望まなかったらしい。けれど、有志が運営する非公式のデジタルアーカイブに、その人格の断片が保存されているのだという。
「もう一度、声が聞きたくて。匂いを、感じたくて……」
彼女が使っていたのは、半ば公然と解読された「党」の署名アルゴリズムを使い、擬似的な閣議承認を通してアーカイブに接続するための、裏ツールだった。そのデータが、フロッピーディスクに入っていた。
だが、先日のシステムアップデートで、その古い抜け道は静かに塞がれてしまった。結果、不正なリクエストがループし、家全体の通信を詰まらせていたのだ。
規則では、即時報告、アカウント凍結。それが正しい処置だ。
『……どうすんの、兄貴』
隼人が静かに問う。
俺は黙ってツールボックスを探り、小さな樹脂製の部品を取り出した。昨日、なんとなく自室の3Dプリンターで作っておいた、旧規格の信号をバイパスさせるためのアダプタだ。
正規の修理品じゃない。もちろん、マニュアルにも載っていない。
光コンセントのカバーを外し、内部の基盤にそっとアダプタを嵌め込む。
「……応急処置です。またすぐ、繋がらなくなるかもしれません。保証はできませんよ」
俺は、おばあさんの顔を見ずに言った。
作業を終え、診断ツールが正常なパケットの流れを示すのを確認する。報告書には「原因不明のノイズ。接触部品の交換にて復旧」とだけ書いた。
辞去しようと玄関に向かうと、背後で、あの不快な焦げ臭さがふっと消えた。代わりに、甘く、どこか切ない香りがふわりと漂ってくる。
金木犀の香りだった。
振り返ると、おばあさんが匂い再現デバイスをそっと撫でていた。その目には、涙が光っている。
俺は何も言わず、ドアを閉めた。
外に出ると、朝靄はすっかり晴れていた。iPodのボリュームを少し上げる。空は高く、どこまでも青い。
まあ、たまにはこんな日も悪くない。俺はヘルメットの中で、小さく息を吐いた。