朱肉とグリッドの瞬き

──平成0x29A年06月06日 07:50

分厚いガラスの向こうで、緑色の素子が明滅している。ブラウン管の表面を、センサーダストの粒子がゆっくりと横切っていくのが見えた。静電気に引き寄せられているのだろう。

「藤崎研究員。申請書の準備が完了しました」

背後から聞こえたのは、代理エージェントS-ガンマ7の合成音声だ。父の声とは似ても似つかない、抑揚のないフラットな響き。もう三週間もこの声を聞いている。

「わかってる」

俺はCRTモニターから目を離し、デスク脇のプリンタから吐き出された一枚の紙を手に取った。正式名称は「人格エージェント法定倫理検査・一次停止措置解除申請書」。要するに、父さんのエージェントを返してもらうための書類だ。システム上の軽微なエラー、と通知にはあったが、手続きは驚くほどアナログだった。

書類を手に、俺はラボを出た。長い廊下の照明が、ふっと一瞬暗くなる。この研究棟を支える省電力マイクログリッドの、いつもの気まぐれだ。電力供給が不安定になるたび、俺たちの生活が薄氷の上にあることを思い出させる。

親父が死んで五年。物理学者だったあの人は、エージェントになっても口うるさかった。「隼人、その仮説は前提が甘い」「そのパラメータ設定ではノイズを拾うだけだぞ」。だが、無機質な代理の声に比べれば、あの小言ですら恋しかった。

主任の部屋のドアをノックする。中からくぐもった声がして、俺はドアを開けた。

「失礼します。例の件で」

主任は、俺のラボにあるものよりさらに旧式のCRTモニターを睨みつけていた。画面には滝のように文字列が流れ落ちている。「ああ、それか」と主任は言い、分厚い眼鏡の奥の目を細めた。

俺が差し出した申請書を無言で受け取ると、引き出しから古めかしいプラスチックケースを取り出す。中には、彼の名前が彫られた朱肉付きのハンコ。主任は慣れた手つきで書類の隅にある四角い枠にそれを押し付けた。トン、と乾いた音が響く。

「これでいいだろう。しかし……」

主任はハンコをケースに戻しながら、独り言のように呟いた。

「君のお父さんのエージェント、少しノイズが多いらしいな。党ドクトリンとの非互換性が、許容閾値を超えかけているとか」

「……エラーではなかったんですか」

「表向きはな。まあ、この程度の逸脱はよくあることだ。すぐに戻ってくるさ」

主任はそれだけ言うと、再びブラウン管の滝に視線を戻した。

自分のデスクに戻り、承認印の押された書類をスキャナにセットする。赤い円の中に刻まれた、主任の名前。その朱色がやけに生々しく感じた。

ドクトリンとの非互換性。それは、父さんの思考パターンが、この社会を規定する巨大な暗号アルゴリズムから、わずかに逸脱し始めていることを意味する。ただのシステムエラーではなかったのだ。

ふと、目の前のCRTモニターに視線を戻す。静電気を帯びたガラス面に、無数のセンサーダストが吸い寄せられ、光の加減でキラキラと輝いていた。

それはまるで、統制された夜空に、勝手に生まれようとする無数の星々のように見えた。