夕暮れの配水管、承認は下りない

──平成0x29A年03月02日 17:30

 休憩室のブラウン管テレビから、電子音が弾ける音がした。同僚の矢口が持ち込んだスーファミのコントローラーを握りしめ、配管工のマリオみたいに跳ね回っている。
「おい矢口、そろそろ十七時半だ。夕飯時のピークが来るぞ」
「あと一面だけ。ここクリアしないとセーブできないんすよ、このカセット」
 矢口は画面から目を離さずに言った。カセットの端子を何度か息で吹いてから差し込まないと起動しない骨董品だ。平成初期の遺物が、なぜかこの時代の最新娯楽として流通している。俺は肩をすくめて、主制御室へと戻った。

 eペーパー製の業務端末が、書き換え特有の黒い粒子を泳がせて、現在の管内圧力を表示した。第十八水利ブロック、浄水ポンプ場。俺たちの職場だ。
『徹、三番のバルブ圧がふらついてんぞ。パッキンがへたってやがる』
 脳内のインプラントから、しわがれた声が響く。親父だ。死んで五年になるが、エージェントとして俺の頭の中に居座っている。生前もこのポンプ場の主だった親父は、死後も水のことばかり気にしている。
「わかってるよ。でも、交換部品の申請がまだ党ドクトリンの承認待ちだ」
『ったく、今の内閣ユニットは何万個並列してやがるんだ? たかがゴムパッキング一つに何日かけりゃ気が済むんだか』
 親父の愚痴を右から左へ流し、俺はモニター上のグラフを睨んだ。夕食の準備が始まる時間帯。水需要が急増し、老朽化した配管に負荷がかかる。

 その時、手元のeペーパー端末が激しく点滅した。いつもの業務連絡ではない。画面全体が菊の御紋の透かし模様に変わり、仰々しい明朝体が浮かび上がる。

【内閣総理大臣権限付与:第0x9C41ユニット】
【任期:残り04分58秒】

「……当たりかよ」
 俺は舌打ちした。数十万分の一の確率で回ってくる、五分間だけの貧乏くじだ。俺の脳と端末が、一時的に国家の最高意思決定機関の一部になる。
 画面には即座に、未処理の政策変更リクエストが一件、ポップアップした。

『案件ID:W-9092 第十八水利ブロックにおける給水圧制限の緊急緩和申請』

 申請者は、このブロックの住民組合。内容は単純だ。夕方の水圧が弱いから、リミッターを外してジャブジャブ水を出せ、という要求だ。これを承認すれば、住民は快適にシャワーを浴びられる。
『おい徹、こいつは罠だぞ』
 親父の声が低くなった。
『今の三番バルブの状態を見てみろ。制限を解除して圧を上げりゃ、古びた配管ごと弾け飛ぶ。そうなれば一週間の断水だ』
「ああ、わかってる。システム上は『市民の生活満足度向上』として推奨タグがついてるがな」
 党のアルゴリズムは、短短期的な支持率維持のために「承認」を推奨している。だが、現場を知らない計算式だ。
 俺は画面上の「非承認」ボタンに指をかけた。
『いいか、水屋ってのはな、感謝されねえのが仕事だ。蛇口をひねれば当たり前に水が出る。その当たり前を守るために、時には嫌われなきゃなんねえ』
 親父の説教は聞き飽きたが、今日ばかりは同意する。俺は静かに、しかし強く画面をタップした。

【却下されました。署名ハッシュ生成完了】

 数秒後、権限委譲の終了を告げる通知と共に、端末はただの業務マニュアル表示に戻った。水圧計の針は低い位置で安定している。どこかの家庭で「今日のシャワーは勢いがねえな」と舌打ちされていることだろう。だが、破裂はしない。

「お、クリアした!」
 休憩室から矢口の歓声が聞こえた。世界の危機も知らずに呑気なものだ。

 十七時四十五分。定時だ。俺はロッカーで作業着を脱ぎ、通用口を出た。
 目の前の道路を、流線型の自動運転シャトルが音もなく滑っていく。中ではスーツを着た連中が、ARグラス越しに虚空を見つめていた。スマートで、清潔で、最適化された移動手段。
 俺はその横にある駐輪場へと向かった。
 錆びついた俺の自転車のハンドルには、針金でくくりつけられたボロボロの紙札が揺れている。『駐輪許可証 No.108』。雨風に晒され、文字は滲んで半分読めない。管理組合に電子タグへの移行を申請しても、予算不足で却下され続けている。

「さて、帰るか」
『おう、帰ってビールでも飲もうぜ』
 俺は紙札のついた自転車の鍵を開け、ペダルに足をかけた。シャトルのような快適さはないし、水圧のように思うようには進まない。だが、このチェーンが切れない限り、俺は俺の力で前に進める。
 夕暮れの風が、少しだけカビ臭い平成の匂いを運んできた。