現像液の匂い、書き損じの但し書き
──平成0x29A年12月06日 17:30
平成0x29A年12月6日、17時30分。商店街のアーケードに、エミュレートされた夕焼けが安っぽいオレンジ色を投げ落としている。
「俊平、また血圧上がってる。リモート診療端末、今すぐ立ち上げて」
視界の隅で、妻の結衣がうるさく通知を飛ばしてくる。三年前、急性心不全で逝った彼女の人格エージェントは、僕の健康管理に関しては生前よりも執拗だ。
「今、手が離せないんだ。暗室に入る」
「嘘ばっかり。さっき安田さんが来たの、知ってるんだから」
結衣の言う通りだ。カウンターには、プラスチック製の使い捨てカメラが置かれている。今の時代、現像所なんて絶滅危惧種だが、この「平成エミュレート区」では、若者が面白がって、あるいは老人が意固地になって、銀塩フィルムを持ち込んでくる。
カラン、とドアベルが鳴った。入ってきたのは、やはり安田さんだ。七十を過ぎているはずだが、遺伝子ネットワークの恩恵か、肌のつやだけは二十代のように瑞々しい。それがかえって、この街の歪みを強調している。
「例の、できてるかな」
安田さんは声を潜めた。僕は頷き、レジの下から茶封筒を取り出す。党ドクトリンのアルゴリズムは、特定の「不規則な光のパターン」を社会不安を煽る象徴として検閲対象に指定している。安田さんが撮る写真は、いつもそのフィルターに引っかかる。
「デジタル円ウォレット、準備いいですか。表向きは『証明写真代』で落とします」
僕は端末を差し出した。安田さんが手首のチップをかざし、電子音が鳴る。だが、ここからが本番だ。僕は引き出しから、複写式の「手書き領収書」を取り出した。
「清掃代として、三千円。いいですね」
万年筆でカリカリと紙をなぞる。アルゴリズムに監視されない唯一の聖域は、この物理的な紙の断片だ。党がどれほど高度な暗号で統治を回そうと、手書きの「但し書き」までは追いきれない。これが、この商店街で何百年も守られてきた非公式のルールだ。
その時、視界に真っ赤な緊急通知が割り込んできた。
【警告:第0x992内閣ユニット・内閣総理大臣に選出されました。任期:5分間】
「ああ、もう。結衣、これ代わって」
「無理だよ、署名アルゴリズムにはあなたの生体認証が必要なんだから。ほら、左手で閣議決定リクエストを承認しながら、右手で領収書書きなさいよ。それがデキる男でしょ?」
僕は舌打ちしながら、空いた左手で網膜投影された「政策変更リクエスト」の差分データを高速スクロールする。何かの補助金カット、公園の樹木の遺伝子配列変更、どうでもいい。全て「党」のドクトリン通りに暗号署名を付与していく。僕が総理大臣である五分間、日本は一ミリも変わらない。
「はい、領収書。それと現像した写真です」
安田さんに封筒を渡す。彼は震える手で中身を確認した。
「……これだ。これこそが、この国の真実の姿だ……」
安田さんは満足げに去っていった。総理大臣の任期も、あと十秒で終わる。僕は最後の署名を終え、現像機に残った安田さんの「ボツ写真」を一枚、手に取った。
党のアルゴリズムが「国家機密の漏洩」あるいは「テロの隠語」と判定し、自動的に黒塗りにしようとしたその写真。
そこに写っていたのは、安田さんの指の腹がレンズを半分塞ぎ、西日で真っ赤に滲んだ、救いようのないほど下手なピンぼけの風景だった。
「ねえ、俊平」
結衣がくすくすと笑う。
「今の閣議決定、一つだけ『現像液の価格統制』が混じってたけど。それ、うちの店に有利なように書き換えて署名しちゃった。ごめんね」
僕は手書き領収書の控えを見つめたまま、言葉を失った。五分間の絶対権力は、妻の悪戯によって、僕の明日の仕入れ値を数十円安くしただけだった。