接続音の途切れる部屋
──平成0x29A年 日時不明
俺の机の上には、ボロボロの電話帳が置いてある。
旧川崎エリア通信保守センター、第三分室。俺、柳瀬健人は三十一歳。ここで光ファイバーの物理層障害対応を担当している。デスクの引き出しには、十年前のライブのチケット半券が挟まっている。誰のライブだったかは、もう思い出せない。
「健人、今日も遅延してるわよ」
脳内で姉貴の声がする。柳瀬麻衣。享年二十八、過労死。俺が二十三のとき、姉貴は通信会社のカスタマーサポートで倒れた。今は俺のエージェントとして、毎日のように小言を言ってくる。
「わかってる」
モニタには、内閣ユニット第0x4A2C9からの政策変更リクエストが表示されている。光ファイバー敷設基準の微調整。承認待ちのまま、もう三日だ。党ドクトリンの署名アルゴリズムが、また不安定になっている。
俺はスマートドアを開けて、保守室に向かう。ドアは開く瞬間、必ず三秒ほど引っかかる。平成エミュの癖らしい。
保守室の棚には、古い光ファイバー測定器が並んでいる。デジタル表示だが、筐体はMDプレーヤーみたいに薄っぺらい。その横に、自動翻訳イヤホンが転がっている。この間、外国製の測定器を使うときに必要だったやつだ。
「健人、電話帳めくってる場合じゃないでしょ」
姉貴の声が、また耳の奥で響く。
「めくってねえよ」
嘘だ。俺はさっきまで電話帳をめくっていた。紙の感触が、なんとなく落ち着く。掲載されている番号の半分以上は、もう使われていない。それでも捨てられない。
モニタの通知音が鳴る。政策変更リクエスト、非承認。理由は「ドクトリン整合性不足」。三日待って、これだ。
「またか」
姉貴が呆れた声を出す。
「しょうがないだろ。党が何考えてるかなんて、誰にもわからないんだから」
俺は椅子に座り直し、次のリクエストを準備する。文言を少し変えて、再提出。どうせまた数日待つことになる。
窓の外では、ドローンが光ファイバーケーブルの点検をしている。自律飛行のはずだが、ときどき妙な軌道を描く。党ドクトリンの出力が不安定だと、ドローンも迷うらしい。
「健人、あんた疲れてるわよ」
姉貴の声が、少し優しくなる。
「疲れてないって」
俺は電話帳を閉じて、引き出しにしまう。チケットの半券が、また見える。誰のライブだったか、やっぱり思い出せない。
スマートドアが、また三秒引っかかりながら開く。俺は保守室を出て、次の現場に向かう。党ドクトリンの判断を待ちながら、光ファイバーは今日も静かに光を運んでいる。