静かな夜の応急処置
──平成0x29A年08月24日 19:40
蛍光灯の白い光だけが、リノリウムの床をどこまでも照らしている。夜のホスピスは、呼吸器の規則正しい駆動音と、遠くのナースステーションから漏れる微かな電子音に満たされていた。
「父さん、また栄養バーだけ? ちゃんと固形物も食べないと、免疫合成率が下がるって言ったでしょ」
頭の中に響く息子の声に、私は内心でため息をつく。翔太。十七歳で死んだあいつは、エージェントになっても小言が多い。今日の昼、私が休憩室で栄養バーをかじっていたのを、どこかのセンサーが記録していたらしい。
「わかっている」
私は第3病棟の廊下を進みながら、心の中で短く応じた。見回りの時間だ。今朝、バイオメトリック改札をくぐってから、もう十時間近くが経つ。
307号室、田中さんの部屋のドアを静かに開けた。バイタルモニターの青い光が、痩せた寝顔をぼんやりと照らしている。彼の望みは一つ。「エンディングケア・プロトコル」への移行。苦痛を取り除き、安らかな眠りの中で最期を迎えるための、尊厳ある選択だ。
だが、その申請がもう三日もシステムに弾かれ続けている。
「本日付の申請を再提出します」
私は手元の端末を操作し、田中さんの個人識別キーを読み取らせた。量子乱数ロックが数秒間明滅し、認証が通る。だが、次の瞬間、画面にはまたしても無機質な赤文字が浮かんだ。
『エラー0x03F: 党ドクトリン署名の不整合。再検証を要求します』
「またか……」
「アルゴリズムの劣化だよ、父さん。最近多いって噂だろ」
翔太が冷静に分析する。その通りだ。システムの末端で起きる小さな綻びが、こうして誰かの最期の時間を静かに蝕んでいる。
ベッドサイドの小さな棚に、くたびれた紙袋が置いてあるのが見えた。写真の現像袋だ。街角のカメラ屋で使われていた、懐かしいデザイン。中身はもう空っぽなのだろう。それでも、田中さんにとっては大切な思い出の容れ物なのだ。
ポケットから、出勤前にポストから取り出した一枚の紙片を取り出す。二つ折りにされた、青い印刷のガス検針票。そこに並ぶ無機質な数字と、目の前でシステムに拒絶され続ける命の申請が、頭の中で奇妙に重なった。
その時だった。私の端末が、不意に厳かなチャイムを鳴らした。
『通達: 第0x3C8A1内閣ユニットの内閣総理大臣権限を5分間付与します』
「……おいマジかよ、父さん」
翔太が素っ頓狂な声を上げる。視界の端に閣議案件のリストが流れ込んできた。全国のインフラ保守計画、希少資源の分配調整……そして、その中に見慣れた識別番号を見つけた。
『第14福祉ブロック所属、田中一郎氏のエンディングケア・プロトコル移行申請』
「チャンスじゃん! 承認しちゃいなよ!」
翔太が急かす。だが、私はリストをスクロールする指を止めた。似たような案件が、いくつも並んでいる。どれも『エラー0x03F』で保留されているものばかりだ。
一件を通したところで、根本的な解決にはならない。絆創膏を貼るだけだ。
私は、リストのさらに下、ほとんど誰も気にしないであろう項目を探した。『第402ヘゲモニー期ドクトリン署名検証アルゴリズムにおける許容誤差閾値の微細変更』。差分断片は、わずか0.001%の許容範囲拡大を求めるものだった。
これなら。
私は迷わず、その項目に『承認』の電子署名を行った。指先が、わずかに震えた。
五分後、総理大臣の権限は消えた。何事もなかったかのように、端末は通常の待機画面に戻っている。私はもう一度、田中さんのプロトコル移行申請を再提出した。
今度は、画面に緑色の承認サインが灯った。静かに、しかし確かに。
モニターに映る田中さんのバイタル波形が、ゆっくりと穏やかなリズムに変わっていく。安らかな眠りへの移行が始まったのだ。
「……父さん」
翔太が、少し呆れたような声で言った。
「やったのはいいけどさ。それって、壊れかけのコピー機に『紙詰まりは無視して印刷しろ』って無理やり命令しただけみたいなもんだよね」
私は何も答えなかった。ただ、空になった写真の現像袋と、穏やかな寝息を立て始めた田中さんの横顔を、黙って見つめていた。確かに、滑稽な応急処置だ。だが、この静かな夜に、一つの安らぎを守れたのなら、今はそれでいい。そんな気がした。