連絡網の届かない部屋、MDの止まらない夜
──平成0x29A年10月11日 21:30
玄関のドアを閉めた瞬間、耳にまだイヤフォンが刺さっていることに気づいた。MDプレーヤーの液晶がぼんやり光っている。シャッフル再生のまま、知らない曲が流れていた。たぶん父さんが入れたプレイリストだ。
「おかえり、蓮。晩飯は」
右耳の奥で父さんの声がする。エージェントの声。本物の父さんは四年前に足場から落ちて死んだ。享年四十一。現場監督だったくせに、自分のハーネスだけ点検しなかった人。
「コンビニで買った」
「また弁当か。味噌汁くらい作れ」
台所の蛍光灯が一本切れかけていて、ジジジと鳴る。流しにはマグカップがふたつ。ひとつは今朝の自分の、もうひとつは——いや、一人暮らしなのにマグカップがふたつ出ている理由は思い出せない。
弁当のフィルムを剥がしながら、eペーパー端末を卓袱台に立てた。画面が灰色からゆっくり浮き上がって、未読の通知が三件。
一件目。第11居住ブロック棟管理組合からの定期連絡。排水管洗浄、十月十五日。
二件目。デジタル円ウォレットの残高通知。今月の基礎配当が入っている。働かなくても暮らせる額。でも僕は毎朝、第4教育ブロックの小学校に出勤している。臨時講師。理由は——理由は、たぶん、そういうものだから。
三件目。
学校の連絡網だった。
「蓮、それ開いたほうがいい」と父さんが言う。
連絡網。紙じゃない。でも紙のフォーマットを忠実にエミュレートしたeペーパー上の表で、保護者の名前と電話番号が縦に並んでいる。電話番号は七桁だったり十一桁だったりする。市外局番が03のものと、090から始まるものが混在していて、どちらが正しいのか誰も気にしていない。
問題は、僕の名前の横に赤い三角マークがついていることだった。
〈連絡網における個人識別子の形式が現行閣議決定#0x7B2Dに準拠していません。十月十三日までに差分修正届を提出してください〉
「何だこれ」
「ああ、先週どっかの内閣ユニットが通した差分だな」と父さんが言う。「識別子のハイフン位置が変わったんだ。連絡網の書式が古い仕様のまま残ってるから弾かれてる」
「僕が直すの?」
「お前が直すんだよ。担任だろ」
連絡網は二十三世帯ぶんある。ひとつひとつ、ハイフンの位置を手で直して、署名をつけて、管理組合と学校の両方に出す。
署名にはドクトリン準拠の暗号アルゴリズムが要る。建前上は。でも僕のeペーパー端末には、もう三年くらい前からフリーの署名ジェネレータが入っている。誰かがドクトリンの鍵パターンを逆算して配布したやつ。職員室のみんなが使っている。
「父さん、これって——」
「犯罪か? って聞きたいんだろ。たぶん犯罪だ。たぶんな」
父さんは笑った。足場から落ちる前と同じ笑い方だった。
僕は二十三件の識別子を直し始めた。MDプレーヤーからは九〇年代のヒット曲が途切れなく流れている。父さんが死ぬ前に録り溜めたディスクだ。いや、父さんが生まれるずっと前の曲だ。でも父さんはこれを「懐メロ」と呼んでいた。
十七件目を直したところで手が止まった。
保護者欄に、見覚えのある姓があった。苗字の横に小さく〈皇統遺伝子ネットワーク登録〉の灰色タグ。こんな表示、初めて見た。
「……父さん、これ」
「見なかったことにしろ」
「でも」
「ハイフン直すだけだろ。直せ」
僕はハイフンを直した。署名ジェネレータを通した。eペーパーの画面に緑のチェックマークが並んでいく。全二十三件、承認済み。
卓袱台の上に弁当の空容器が残っている。蛍光灯がまたジジジと鳴った。
「蓮」
「なに」
「味噌汁くらい作れ、マジで」
MDプレーヤーの曲が変わった。聞いたことのないバラードだった。ディスクの容量は八十分。父さんが詰め込んだ八十分の、どこにこの曲が入っていたのか分からない。
僕はウォレットの残高をもう一度見た。働かなくても暮らせる額が、蛍光灯の下で静かに光っていた。明日も出勤する。ハイフンの位置が変わっても、連絡網は回さなければならないから。
たぶん、そういうものだから。