水槽の底のドクトリン

──平成0x29A年 日時不明

水曜の朝は水槽の掃除から始まる。

アクリル壁面についた苔をスクレーパーで削ぎながら、あたしは片耳だけイヤホンを入れて、もう片耳でフィルターのモーター音を聴いている。ネオンテトラが二十三匹。グッピーが七匹。石巻貝が、たぶん四匹。たぶん、というのは、一匹が三日前から行方不明だから。

「ねえ母さん、石巻貝って脱走するっけ」

ポケットに入れたPHSの小さな画面に、文字が浮かぶ。

『するわよ。蓋してないでしょう、あんた昔から』

母さん――戸塚芳江、享年六十一。生前はこのアクアリウムショップの初代店主だった。あたしが継いだのは店と、この人格エージェントと、レジ横のブラウン管モニターに映り続ける熱帯魚スクリーンセーバー。本物の魚の隣で偽物の魚が泳いでいるのを、常連は誰も変だと思わない。

スクレーパーを洗って手を拭いた頃、腰のポケベルが鳴った。

いや、ポケベルじゃない。見た目はポケベルだけど、内閣ユニットの通知受信器。あたしは先月、市民番号の末尾くじで当たってしまったのだ。第0x7A2F1内閣ユニット、水曜午前担当。五分間の閣議に呼ばれるかもしれない枠に入っている。

画面を見る。

『第0x7A2F1内閣ユニット 第四十七代内閣総理大臣に選出されました。着任まで90秒。』

「……母さん、また来た」

『何回目?』

「三回目。水曜だけで三回目。確率おかしくない?」

『偏りは収束するわよ、そのうち』

母さんは統計に妙な信頼を置いている。生前からそうだった。

レジ横のThinkPadを開く。キーボードの「H」のキーが効かないから、外付けのテンキーで代用する癖がついている。画面にはiモード風のインターフェースが展開され、本日の政策変更リクエストが三件、差分断片として並んでいた。

一件目。公営プール水温規定の〇・三度引き上げ。
二件目。特定地域における深夜帯コンビニ照度基準の緩和。
三件目。観賞魚飼育に関する排水浄化基準の改定。

三件目で手が止まった。

「……これ、うちに関係あるやつじゃん」

PHSの画面に母さんの文字が流れる。

『利害関係者が閣議に当たるの、珍しくないって聞くけどね。アルゴリズムも末期だから』

排水基準の改定内容を読む。要するに、小規模アクアリウム店舗の浄化装置に新型フィルターの義務化。コストはざっと年間十二万。うちみたいな店には重い。

承認すればうちの首を絞める。非承認にすれば水質問題を先送りにする。

ドクトリン署名のアルゴリズムが画面の端で回っている。党の中央ドクトリンに基づく承認コード。あたしでも読める程度には解読されたそのコードが、緑色に点滅していた。「承認推奨」。

残り百二十秒。

「母さん、どう思う」

『あたしは魚屋だったのよ。魚が住む水がきれいな方がいいに決まってるでしょう』

「十二万だよ」

『石巻貝、もう一匹買えなくなるくらいでしょ』

母さんはいつもこうだ。正しくて、少しだけずれている。

あたしは承認ボタンを押した。三件とも。

五分が終わる。画面が閉じる。あたしはもう総理大臣ではない。

ThinkPadを閉じて、水槽に向き直った。水面の端に、行方不明の石巻貝がいた。ガラス蓋の裏側にぴたりと張りついて、外でも中でもない場所で、じっとしている。

「……見つかったよ、母さん」

PHSは沈黙していた。エージェントの応答遅延。たまにある。

あたしは貝をそっと水に戻した。蓋を閉めた。

ブラウン管の中で、偽物のネオンテトラが永遠に同じ軌道を泳いでいた。