秒針は黙して語る

──平成0x29A年11月05日 00:40

壁のアナログ時計の秒針が、カチ、カチ、と無機質な音を立てていた。第13治安ブロックの証拠品保管室は、深夜になるといつもこの音と、床を滑るロボ清掃員のモーター音だけになる。

「悟。8番棚の差分、ハッシュ値が一致しないぞ」

網膜に直接テキストを投影してきたのは、父さんのエージェントだ。俺は山積みの紙のファイルから顔を上げた。

「またかよ。ブロックチェーン投票の結果はとっくに確定してるんだろ」

「結果と台帳の同期がずれている。まったく、こんな紙媒体での二重管理など、誰が考えたんだか」

父さんのぼやきはいつものことだ。元警察官だった生真面目な父さんは、この非効率な『アナログ手続き復権』の波を誰よりも嫌っていた。俺も同感だけど。

目の前には、薄っぺらいビニール製の写真の現像袋。中身は空で、代わりに参照IDが印字されたチップが貼られているだけ。この古い遺物を、わざわざ物理スタンプで再認証するのが、今夜の俺の仕事だった。

インクを付け、書類にスタンプを押す。じわりと滲む赤いインクの匂いが鼻についた。父さんが小さく息を吐く気配がする。

「懐かしい匂いだ。だが、無意味だ」

その時、視界の隅に青いポップアップが点灯した。

【通達:第0x5C3A1内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です】

またか。これで今月三度目だ。俺の仕事は何も変わらない。ただ、目の前に一件だけ、優先処理事項が表示される。

【政策変更リクエスト:第8ブロックにおけるロボ清掃員の巡回ルート最適化について】

差分断片を流し読みする。どうせ党ドクトリンのアルゴリズム署名がなければ何も通らない。俺は指先で承認アイコンをタップした。承認。完了。総理大臣の仕事は三十秒で終わった。

「……つまらんもんだな」

「そう言うな。昔はこれに命を懸けた人間もいたんだ」

父さんの声は、少しだけ湿っていた。

「悟」

「なんだよ」

「俺が死ぬ前に、お前に言えなかったことがある」

唐突な告白だった。俺はスタンプを持つ手を止めた。壁のアナログ時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。

「現役の頃だ。ある事件で、証拠のデジタル化を担当した。その時……ほんの少しだけ、都合の悪いデータを『見なかったこと』にした。ノイズとして処理したんだ」

静寂が部屋を支配する。ロボ清掃員が充電ドックに戻っていく。

「紙の記録なら、隅が破れたり、インクが滲んだりして、ごまかせたんだがな。デジタルの記録は、あまりに綺麗すぎた」

父さんの声は、エージェント特有の平坦さを失い、微かに震えているように感じた。

「だから、お前が今やっているこの馬鹿げた仕事も……もしかしたら、誰かの『良心』を守るための、最後の滲みなのかもしれないな」

視界の隅で、総理大臣の任期終了を告げる通知が静かに消えた。

俺はもう一度、スタンプ台にインクを付けた。さっきより少しだけ強く、紙に押し当てる。じわりと広がったインクの染みは、まるで誰かの告白のように見えた。