四月の画鋲と、量子もつれのテレホンカード

──平成0x29A年04月02日 15:20

 平成〇x二九A年四月二日、十五時二十分。
 第8文教ブロック、職業訓練センターの廊下には、古ぼけたワックスの匂いと、ホログラム投影機の熱気が混じり合っていた。窓の外では、党ドクトリンが最適化した「平成の春」を演出するため、ピンク色の光粒子が桜の形を模して舞い散っている。

「航、また背中が丸まってるわよ。履歴書用のホログラム撮影、もうすぐなんだから」

 脳内に直接響くのは、姉の結衣の声だ。十二年前、まだ僕が十代の頃に海で死んだ彼女は、今では僕の生活を管理する近親人格エージェントとして、視界の隅に小さな緑色の通知アイコンを表示させている。

「わかってるよ。でも、この『平成マナー・プロトコル』って講習、本当に意味があるのかな。MDのラベルの書き方とか、回覧板の正しい回し方とか」
「意味なんて考えちゃダメ。これは『社会の質感』を維持するための儀式なんだから」

 結衣は呆れたように笑う。僕たちは今、町内会掲示板の管理実習の最中だ。物理的な木の板には、いくつものホログラム掲示が重なって浮かんでいる。「不審者情報:白いセダンに注意」「今月のごみ収集カレンダー」「たまごっち大会のお知らせ」。
 僕は指先でホログラムを操作し、古い通知を消去していく。だが、掲示板の隅に一つだけ、物理的な「画鋲」で留められた紙のチラシがあった。茶色く変色したその紙には、『平成二十年度・町内清掃のしおり』と書かれている。

 その時、視界が真っ赤に点滅した。アラート音は「着うたフル」で流行った懐かしいJ-POPのメロディ。だが、その意味は優雅なものではない。

【通知:貴殿は現在から五分間、第〇xBF4内閣ユニットの内閣総理大臣に選出されました】

「嘘だろ、このタイミングで?」
「運が悪いわね。さっさと閣議決定を済ませて。講習に遅れるわよ」

 姉の冷静な声に従い、僕は掲示板の横にある、緑色の「公衆電話」へと駆け寄った。これは単なるレトロなオブジェではない。内閣ユニットの並行処理に直接アクセスするための、量子暗号端末だ。受話器を上げると、受話口から冷たい風が吹き出しているような感覚がした。

 テレホンカード型の量子鍵をスロットに差し込む。目の前に、現在進行中の「政策変更リクエスト」の断片がスクロールされた。

『リクエスト:第8ブロック内の全「町内会掲示板」を完全デジタル化し、物理画鋲の使用を禁止。社会安定アルゴリズムに基づき、非効率なアナログ接続を遮断する』

 承認か、非承認か。党の中央ドクトリンは「効率化」を署名せよと、僕の網膜に暗号アルゴリズムの署名欄を突きつけてくる。これに量子署名を行えば、僕の作業は楽になる。画鋲で指を刺すことも、錆びたピンを抜く手間もなくなるだろう。

 受話器の向こうから、ノイズ混じりの声が聞こえた。それはシステムの声ではなく、誰か、別の内閣ユニットで総理大臣を務めている「誰か」の溜息のようにも聞こえた。

「航、早くしなさい。あと百二十秒」

 僕は受話器を肩に挟みながら、掲示板に残された古いチラシを見つめた。そこには、誰かが手書きで書き加えた「お疲れ様でした」という小さな文字があった。それはアルゴリズムが生成したエミュレートではない、かつてここに生きていた人間の、微かな呼吸の痕跡だ。

 僕は量子署名の欄に、標準的な「承認」ではなく、差分修正のコードを打ち込んだ。
『修正:掲示板の物理基盤を維持し、月に一度の「画鋲の抜き差し」を市民の情操教育として存続させる』

 システムのアルゴリズムが激しく演算し、僕の決定を「非効率」と罵るように赤く光った。だが、党ドクトリンの深層にある「平成維持」のコードがそれを中和する。矛盾を孕んだまま、量子署名が完了した。

「……バカね、航。自分から仕事を増やすなんて」

 姉の声は呆れていたが、少しだけ弾んでいるようにも聞こえた。内閣総理大臣の権限が剥奪され、視界は元の静かな廊下に戻る。公衆電話からテレホンカードが「チッ」と音を立てて吐き出された。

 僕は再び、掲示板の前に立つ。新しいホログラムが投影され、「四月の清掃ボランティア募集」の文字が踊った。僕はポケットから予備の画鋲を取り出し、さっきの古いチラシの横に、新しいお知らせを留めた。指先にチクリと軽い痛みが走り、一滴の血がにじむ。

 それは、この演算され尽くした世界で、僕が確かにここにいるという、何よりも確かな手応えだった。

「さて、次は履歴書の撮影ね。笑顔の練習、ちゃんとしなさいよ」

 姉のアイコンが優しく点滅する。僕は少しだけ胸を張って、春の光が差し込む講堂へと歩き出した。掲示板に残された画鋲が、偽物の太陽の光を反射して、小さく、けれど確かに輝いていた。