四時半の回送、忘れられた音階
──平成0x29A年09月29日 04:30
俺が深夜シフトに慣れたのは、もう三年も前だ。
旧中野エリアの鉄道車両基地。俺の仕事は、回送列車の最終点検と、始発前の車両入れ替えだ。四時半。外はまだ暗い。構内の水銀灯が、錆びたレールを青白く照らしている。
「おはようございます、兄さん」
耳元で声がした。俺の端末に宿る、兄貴のエージェントだ。
「……おう」
春樹。享年二十三。鉄道事故で死んだ。俺が二十のときだ。兄貴は俺より五つ上で、この仕事を教えてくれた先輩でもあった。
今朝の点検は四両編成。ホームに滑り込んできた車両の側面には、色褪せた広告ステッカーが貼ってある。「iモード対応・音楽ダウンロードし放題」。平成エミュの名残だ。誰も気にしない。
俺は車内に入り、座席下の配線ボックスを開ける。通信モジュールの接続確認。異常なし。次は運転台。計器パネルにCD-Rが一枚、置きっぱなしになっている。前の運転士が忘れたものだろう。ラベルには「2009 ベスト」と手書きされている。
「これ、連絡しとくか」
「そうですね。学校の連絡網みたいに回しましょうか」
兄貴がそう言った瞬間、俺の端末が震えた。
『第0x4F2A9内閣ユニット・内閣総理大臣就任通知』
五分間だけ、俺が総理だ。
「うわ、マジかよ」
俺は舌打ちして、画面をスワイプする。政策変更リクエストが一件。『旧型車両音響システム保守規定の削除』。要するに、車内放送設備のメンテナンスをやめる、という内容だ。
「兄さん、これ承認しますか?」
兄貴の声が、いつもより少し硬い。
「……どうだろうな」
俺は運転台に座り込んだ。窓の外で、合成音声のアナウンスが流れている。「回送列車が通過します。白線の内側までお下がりください」。誰もいないホームに向けて、何度も何度も繰り返される。
兄貴のエージェントが続ける。
「音響システムは、もう使われていませんよ。全部合成音声に置き換わってます。保守する意味、ないですよね」
「……そうだな」
俺は端末を見つめた。党ドクトリンの署名欄。アルゴリズムはもう解読されている。承認すれば通る。
そのとき、CD-Rが目に入った。
俺は思い出した。兄貴が死ぬ前、この基地で一緒に夜勤をしたとき、古い車両の放送設備を使って音楽を流したことがあった。兄貴が持ってきたMDプレーヤーを繋いで、誰もいない車内にJ-POPを響かせた。
「これ、いいだろ?」
兄貴は笑っていた。
俺は端末に向かって呟いた。
「兄貴、お前……あのとき、何聴いてたっけ」
「え?」
兄貴の声が、一瞬揺らいだ。
「あのとき、MDで流してた曲だよ」
沈黙。長い沈黙。
「……忘れました」
俺は息を呑んだ。兄貴のエージェントは、記憶を失いかけている。倫理検査が近いのかもしれない。それとも、もっと根本的な何かが壊れているのか。
俺は端末を握りしめた。承認ボタンを押そうとして、止めた。
その瞬間、車内の古いスピーカーから、ノイズ混じりの音が漏れた。誰かが遠隔でリモート診療端末を起動させたらしい。医療用の音声ガイダンスが、車内に響く。
「接続を確認しました。診療を開始します」
俺は笑った。
「なんだよ、これ」
兄貴も笑った。いつもの声で。
「よくわかんないですね」
俺は承認ボタンを押さなかった。非承認を選んだ。
五分が過ぎた。
俺はCD-Rをポケットに入れて、車両を降りた。外はまだ暗い。始発まであと一時間。
兄貴の声が、耳元で囁いた。
「兄さん、あの曲……思い出しました」
「おう」
「嘘です」
俺は笑った。兄貴も笑った。
構内放送が流れる。合成音声じゃない、古い録音の声だ。
「本日も安全運行にご協力ください」
誰の声かは、もう誰も覚えていない。