使い捨ての夜景、CD-Rに焼けない祈り

──平成0x29A年01月09日 23:10

公園のベンチが冷たい。

一月の夜風が、コートの隙間から忍び込んでくる。時刻はとっくに二十三時を回っていて、噴水は止まっている。水面だけが街灯を吸い込んで、ぬるく光っている。

あたしは使い捨てカメラを構えて、その光を撮った。

ジーッ、カシャ。巻き上げの音が夜に響く。残り七枚。

「美波、またそれ。現像どうすんの」

左耳のイヤピースから、おばあちゃんの声。柔らかいけど遠慮のない、あの声。

「駅前の写真屋、まだやってるよ」

「やってるけど、監査入ったでしょ先週。物品証明の更新が終わるまで受付停止って」

知ってる。知ってるけど、撮りたいから撮ってるの。

あたしの名前は片桐美波。バーチャル役所の窓口対応員をやっている。二十七歳。仕事はアバターを介した市民対応で、深夜シフトも月に何度かある。今日は二十二時で上がれた。珍しく早い。

おばあちゃん――片桐ハナ。享年七十九。三年前に眠るように逝った。エージェントになってからも、編み物の手を動かすみたいに、あたしの生活に口を出す。

「監査といえば」とハナが続ける。「明日また来るの? 窓口の」

あたしは噴水の縁に腰を下ろし直した。

「来る。三回目。今度は量子署名の照合精度について、だって」

「三回目……」

先月から、バーチャル役所の窓口業務に対する適正運用監査が立て続けに入っている。最初は閣議承認フローの記録不備。次は市民からの差分リクエストの受付タイムスタンプの誤差。そして今度は、あたしたちが使っている量子署名モジュールの検証だ。

問題なんかないのに。

あたしたちは毎日、画面の向こうの市民と話して、転居届とか、配給調整とか、ペットの登録変更とか、そういう細かいリクエストを受け取って、差分断片として上に流すだけだ。量子署名はシステムが自動で付与する。あたしが触れるところじゃない。

でも監査は来る。報告書を書き、ログを出力し、CD-Rに焼いて物理提出する。CD-R。読み取りドライブがもう窓口に一台しかないのに。先輩が「ドクトリンが物理媒体保全を要求してるから」と言っていた。誰も中身を読まないのに。

「ねえ、ハナさん」

「なに」

「あたし、今日の監査対応で、去年受け付けた転居届のログ、全部洗い直したの。三千二百件」

「……」

「で、一件だけ、署名の照合値がずれてた。0.0003パーセントの誤差。許容範囲内。それでも報告書に書いた。CD-Rに焼いた」

風が止んだ。噴水の水面が、一瞬だけ鏡みたいになった。

「疲れたでしょう」

おばあちゃんの声は、編み目を数えるときと同じトーンだった。

「疲れた」

あたしはカメラをまた構えた。噴水じゃなくて、自分の靴を。白いスニーカーの、汚れたつま先を。

ジーッ、カシャ。残り六枚。

「美波」

「うん」

「現像できなくてもいいじゃない。撮ったことが残るから」

「フィルムの中にだけ?」

「あんたの手の中にでしょ」

あたしは笑った。少しだけ。

ベンチの向こう、公園の自販機がゴトンと音を立てた。誰もいないのに。補充ロボットが巡回しているらしい、小さなモーター音が遠ざかっていく。

ポケットの中で端末が震えた。通知を見る。

《第0x7A1F2内閣ユニット 閣議招集 片桐美波殿を内閣総理大臣に任命》

また来た。三ヶ月ぶりだ。

あたしは五分だけ、どこかのユニットの長になる。差分リクエストが二件、画面に並んだ。一件目、公共空間における監査頻度の上限設定に関する変更案。

息が止まった。

「ハナさん、これ」

「見えてるよ」

あたしはリクエストの中身を読んだ。監査回数を年間四回までに制限する提案。起草者は匿名。量子署名は――有効。ドクトリンとの整合性、アルゴリズム照合――通る。通ってしまう。

指が震えた。承認ボタンの上で。

これを通したら、来月からあの報告書を書かなくていいかもしれない。CD-Rを焼かなくていいかもしれない。三千二百件のログを夜中まで洗い直さなくていいかもしれない。

「通しなさい」

おばあちゃんの声は静かだった。

あたしは、承認を押した。

五分が終わった。端末が元の画面に戻る。公園は暗いままで、噴水は止まったままだった。

何も変わっていないように見える。数十万のユニットのひとつ。あたしの承認ひとつ。

でもカメラを持ち上げて、空に向けた。冬の星が、ほんの少しだけ見えた。

ジーッ、カシャ。

残り五枚。まだ撮れる。