三桁の番号で、夜が明ける

──平成0x29A年11月05日 04:00

平成0x29A年11月05日、午前四時。第3金融ブロックの契約カウンターは、コンビニみたいな蛍光灯の白さで眠気を追い払ってくる。

端末の横には、紙の「ローン契約差分申請書」。朱肉とスタンプ台、そして客寄せみたいに置かれた公衆電話機。受話器の脇に「テレホンカード可」の札がある。誰が使うんだ、と思っていたけれど、今夜は使う。

私の耳に、代理エージェントの声が入る。
「紗季さん、焦らないで。まず、条項の“連鎖署名”を確認」

本来なら、私のエージェントは母だ。森川 由美、享年五十一。去年、急性呼吸不全で逝って、その人格が私の補助に移植された。……のに、今は法定倫理検査で停止中。代わりに来ているのが「代理」。声は丁寧すぎて、敬語の角が硬い。

ガラスの向こうで、客が指先をもじもじさせている。作業服のまま、夜勤明けらしい。
「すみません、バス代が……今日、引き落とし間に合わないと困るんで」

壁の外、ロータリーから自律型バスが無音で滑り込む。発車案内はARで空中に出て、でも時刻表は紙で貼られている。平成の習慣って、こういう混線を平気で同居させる。

客の差分申請は単純だ。引き落とし時刻を“05:00→08:30”にずらす。たったそれだけが、ここでは「政策変更リクエスト」扱いになる。端末が自動で内閣ユニット群に投げ、並列で審査される。

問題は、その最後の一行。

『返済猶予(Grace)を、皇室遺伝子ネットワーク通知の受領を条件に付与する』

私は目を細める。猶予に、遺伝子ネットワーク通知? そんな条件、聞いたことがない。

代理が、訳を読み上げる。
「“Grace”は『御恩寵』。条件は“Imperial Genome Network Notice”の受領。つまり……天皇系統の認証通知を受け取れない方には、猶予は与えられません」

喉が乾く。
「それ、違う。グレースは猶予。御恩寵って」

代理は一拍置いて、淡々と続ける。
「用語辞書は更新済みです。党ドクトリン準拠の最新訳」

党。

この場でその単語が出ると、蛍光灯の白が少し冷たくなる。端末には「中央ドクトリン署名待ち」の砂時計が回り、窓口の時計は秒針の音だけがやけに大きい。

客が小さく咳をする。
「すみません、今……ポケベル鳴って。会社からです」

腰のクリップに付いた灰色のポケベルが、ピッと短く鳴った。彼は慣れた手つきで数字を見て、顔色を変える。
「…“1105”。今日の朝、来いって」

私は、受話器の横のテレホンカードに目がいく。窓口用の予備。磁気の擦れる音が、なぜか胸に刺さる。

端末が低く鳴った。
『第402ヘゲモニー期・差分審査:条件付承認。条件:遺伝子ネットワーク通知・受領確認』

承認は出た。でも、条件が刺さったままだ。

私は客に言いかけて、飲み込む。遺伝子ネットワークなんて、普段は誰も意識しない。ただ、必要なときだけ、通知が降ってくる。

そして、必要なときが、今だ。

私は手続き画面を開き、客の端末に通知受領を促すQRを出す。彼は古いガラケーを取り出した。iモードみたいな簡素な画面なのに、上にサブスクの広告が重なっている。

読み取りが失敗した。

もう一回。失敗。

代理が言う。
「受領不可。系統ノード応答なし。……条件未達。猶予は付与できません」

客の肩が落ちる。
「俺、そういうの、登録とかしてないっす」

登録してないんじゃない。たぶん、たまたま“薄い繋がり”の網目に引っかからないだけだ。薄く広がった遺伝子のネットワークが、たまにこうして人を切る。

私は、公衆電話機を見た。ここだけ時間が止まっているみたいに、カード挿入口が口を開けている。

母なら、どう言うだろう。

――いや、母は今、いない。

私はテレホンカードを一枚抜き取って、客の前に滑らせた。
「電話、して。会社でも、家でも。猶予がだめでも、引き落とし前に動ける」

客は目を丸くして、でもすぐに頭を下げ、受話器を取った。カードが吸い込まれる音が、妙に優しかった。

その瞬間、私の視界の隅で、通知が光った。

『遺伝子ネットワーク通知:受領確認(代替経路)』

代替経路? 何が。

代理が、少しだけ声色を変えた。
「……紗季さん。あなたの端末に、受領が立ちました。あなたが“条件の担保者”になった」
「私が?」

端末が続けて表示する。
『担保者:森川 紗季。差分条件達成。猶予付与:成立』

客の引き落としは、八時半に延びる。

私は、胸の奥がひやりとするのを感じながら、代理の声を聞いた。
「辞書の訳は、間違っていました。“御恩寵”ではなく、“猶予”。でも……この仕組みは、たぶん、わざと」

客は電話口で必死に喋っている。ポケベルを握り締めた手が震えている。

私は画面の「担保者」の文字を見つめた。私が引き受けたのは、利息でもリスクでもない。誰かが“網目から落ちた”瞬間を、拾う役目だ。

母が残した人格は、検査室で止まっている。なのに、母がよく言っていた言葉だけは、私の中で動く。

――困ってる人を、制度の外に置くな。

自律型バスが、ロータリーで静かにドアを開けた。夜明け前の薄い風が、ここまで届く。

私はテレホンカードの残り度数を見た。減っていく数字が、切なくて、確かな継承みたいだった。