現像袋の底、消えない度数
──平成0x29A年09月16日 02:50
午前二時五十分、防災センターの蛍光灯がまた一本切れた。
三本中の二本目。残った一本が、薄青い光で訓練室の天井を照らしている。私は折りたたみ机の上に散らばった書類を揃えながら、左肩に貼ったナノ医療パッチの端が剥がれかけているのに気づいた。二日前に替えたばかりなのに、もう粘着が弱っている。
「巳之助、貼り直しなさい。どうせまた汗で浮いてるんでしょう」
耳の奥で祖母の声がした。エージェントの声は骨伝導で届くから、静まり返った訓練室でも誰にも聞こえない。
「あとでいい。先に署名照合やらないと」
私は端末——画面の縁がオレンジに光る旧式のタブレットを立て、今夜の訓練承認データを呼び出した。九月の総合防災訓練。第11防災ブロック第二分室の担当として、早朝四時開始の住民避難訓練の最終承認を通す。それだけの仕事だった。
はずだった。
党ドクトリン署名のハッシュが、二桁目で噛み合わない。
「0xC7Aが0xC7Bになってる」と私は呟いた。たった1ビットの差。だがこの署名が通らなければ、訓練の開始コマンドは発行できない。スマートドアの避難モード解除も、館内放送の自動起動も、全部この署名にぶら下がっている。
祖母——柿崎ツネ、享年八十一。晩年は町内会の防災係をやっていた人だ——が、端末越しにデータを覗き込む気配がした。
「あんた、前にもこういうの見たでしょう。ほら、三月の」
「三月のは照合サーバの時刻ズレだった。今回は違う。ドクトリン本体の署名鍵が……」
言いかけて、口を閉じた。半ば公然の事実ではあっても、口にするものではない。鍵が脆くなっている。アルゴリズムの賞味期限が、とっくに切れている。
私は机の引き出しを開けた。非常用の紙マニュアルを探すためだ。手が触れたのは、マニュアルではなく、古い写真の現像袋だった。「同時プリント仕上がり」と印字された茶色い紙袋。中には前任者が撮ったらしい訓練風景の写真が数枚。裏にボールペンで日付と参加人数が走り書きされている。
その下に、テレホンカードが一枚。
穴が三つ開いている。残り度数は二十八。表面には富士山の写真。なぜこれが防災備品の引き出しに入っているのか分からなかったが、裏を返すと、油性ペンで電話番号が書かれていた。ブロック間連絡用の外線番号。回線が落ちたときの非常連絡先らしい。
「賢いね、前の人」と祖母が言った。「デジタルが止まったら紙とカードだけが残るの。あんたもよく覚えときなさい」
私はテレホンカードをポケットに入れ、マニュアルの奥から手動署名の手順書を引っ張り出した。非常時代替手順、第七条。署名の不整合が党ドクトリン側に起因する場合、ローカル権限者の生体認証と手書き押印で代替できる。ただし事後監査あり。
指紋を押した。端末が受理音を鳴らし、スマートドアのインジケータが赤から緑に変わった。避難経路が開く。
午前三時十二分。訓練まであと四十八分。
私はパッチの端を親指で押さえ直した。ナノ粒子が皮膚に馴染む微かな熱。祖母は何も言わず、ただ喉の奥で小さく息を吐いた。生前の癖だ。安心したときの。
現像袋の写真を一枚だけ抜いて、机の端に立てかけた。前任者が撮った訓練参加者の集合写真。誰一人知らない顔。それでも、笑っている。
残った蛍光灯が、じじ、と鳴った。
テレホンカードの富士山が、ポケットの中で太腿に触れている。プラスチックの角が、少しだけ痛い。
その痛みだけが、今、確かだった。