センサーダストの降る交差点、現像袋のなかの沈黙
──平成0x29A年11月01日 18:10
十一月の風が冷たくなってきた。
午後六時を過ぎると、第17治安ブロックの交差点は帰宅する人の流れで騒がしくなる。私はその流れに背を向けて、歩道橋の下に設置された監視ポストの椅子に座っていた。
モニターの右半分には交差点のライブ映像、左半分にはセンサーダストの検知マップ。交差点の舗装に撒かれた微粒子センサーが、通行人の靴底から体温、歩行パターン、重量まで吸い上げて、薄紫色の点群として表示される。この点群が一定の閾値を超えたら私の出番だ。出番といっても、ガラス越しに交差点を見つめるだけだが。
「柚月、今日の粒子密度は昨日より二割高い」
イヤピースから叔母の声がした。遠藤富子、享年六十三、私の母の姉。三年前に肺を悪くして逝った。生前から私のことを「柚月」と呼び捨てにする癖は、エージェントになっても変わらない。
「風が強いから巻き上がってるだけでしょ」
「それにしてもね。あと、公衆電話のところに四十分動かない人がいる」
モニターの端に目をやる。交差点の角、コンビニの横に据えられたグレーの公衆電話ボックス。中に人影がある。受話器を持っているようには見えない。ただ立っている。
私は腰のホルダーからエッジAI端末を抜いた。PDA風の厚い筐体、液晶は緑がかった低解像度。背面にはプリクラみたいなシールが何枚か貼ってある。前任者の趣味だ。端末のローカル推論で通行人のパターン異常を拾えるが、精度はまちまちで、たいていは叔母のほうが先に気づく。
端末を交差点に向けると、センサーダストのデータと映像がオーバーレイされた。公衆電話の人物は男性、推定四十代、体温正常、心拍やや高め。不審フラグは立っていない。ただ、足元のセンサーダストが妙なパターンを描いている。微粒子が人の周囲だけ規則的に配列されている。まるで——
「磁気?」
「磁気じゃない。あれ、署名キーの物理散布よ」
叔母の声が低くなった。
私は端末の画面を拡大した。センサーダストの検知層の下に、もうひとつの情報層が見える。党ドクトリンの署名アルゴリズムに使われる鍵の断片。本来なら閣議決定の暗号署名プロセスの中にしか存在しないはずの符号列が、物理的な微粒子パターンとして交差点にばらまかれている。
「これ……通報案件じゃない?」
「通報したところで、どこに届くの」
叔母は淡々と言った。正しい。署名アルゴリズムの露出はもう公然の秘密だ。半年前にも別のブロックで似た事案があった。内閣ユニットからの政策リクエストで対応指針が降りてきたが、結局そのリクエスト自体の署名が同じ手口で偽造されていて、話は立ち消えになった。
公衆電話の男が動いた。ボックスから出て、ポケットから何かを取り出す。白い紙袋——いや、写真の現像袋だ。あの、町の写真屋で仕上がりを入れてくれる薄い袋。男はそれを電話ボックスの棚にそっと置いた。そして歩き去った。
「取りに行くの?」と叔母。
「職務だから」
私は監視ポストを出て、交差点を渡った。信号が点滅するなか、靴底でセンサーダストを踏む感触がかすかにある。粉雪みたいだ、といつも思う。
電話ボックスの中は、テレホンカードの投入口がある旧式のやつだった。受話器からは微かにツーという音。現像袋を手に取る。封は開いている。中にはL判の写真が一枚。
交差点の写真だった。この交差点。ただし、センサーダストの検知マップがそのまま印画紙に焼き付けられている。紫の点群のあいだに、署名鍵の断片が矢印で示され、手書きの赤い文字が添えてあった。
「ここに穴がある。直せる人へ」
通報ではない。告発でもない。修繕の依頼だ。
叔母が静かに言った。「……あんたに届いたんだね」
私は写真を現像袋に戻した。端末にログを残すべきか迷ったが、まず写真をもう一度見た。赤い文字の筆圧が、妙に丁寧だった。急いでいない。怒ってもいない。ただ、誰かがこの穴を塞いでくれると信じている人の字だった。
交差点の信号が青に変わる。帰宅の波がまた押し寄せる。センサーダストが靴底に舞い上がり、紫の点群がモニターの上で明滅する。
私は現像袋をポケットに入れて、監視ポストに戻った。叔母は何も言わなかった。ただ、イヤピースの向こうで、あの人が生前よくやっていたように、小さく鼻歌を歌い始めた。知らない曲だった。たぶん、叔母が若い頃に好きだった何かだ。
端末の画面に通知が一件。「第0x7A1F2内閣ユニット、本日18:14:32より5分間、遠藤柚月を内閣総理大臣に任命」。
私は現像袋の写真のことを考えた。政策変更リクエストの書き方を、叔母に聞いてみようと思った。