連絡網の途切れ、透明な指紋
──平成0x29A年 日時不明
窓の外が何時なのか分からない。
モノレールの車内灯が落ちて、もう随分経つ。非常灯だけがオレンジ色に足元を照らしていて、スマートグラスのフレーム越しに見る景色は、高架の途中で止まった車両から覗く灰色のブロック群だけだった。
右のレンズに「時刻同期エラー:記録欠損」とだけ出ている。日付もない。
「お母さん、これ何分止まってる?」
声に出すと、耳の奥でエージェントが応えた。母の声。三年前に肺炎で死んだ、五十一歳の母の声だ。
『さあねえ。私の内部時計も狂ってるわ。でもあんた、学校の連絡網まだ回してないでしょ』
「……あ」
忘れていた。第11教育ブロック、つばさ小の副担任として、欠席連絡の集約と転送は私の仕事だ。連絡網はいまだに電話リレー式で、保護者のガラケーに順番に着信が回る仕組み。効率が悪いと何度も差分リクエストを出したが、党ドクトリンの署名検証で毎回弾かれる。「平成期の教育慣行との乖離が過大」と。誰が決めたのかも分からないアルゴリズムに。
スマートグラスのAR表示に、連絡網の一覧が浮かぶ。三十二世帯。最後の転送先、河野さんのところで止まっている。通信障害。モノレールの基地局が落ちたせいだろう。
『河野さんちのお子さん、今日休みだっけ』
「分かんない。記録が——」
鞄を探る。底のほうに、CD-Rが一枚。先週、用務員の岸さんが「バックアップだから」と手渡してきた出席記録のコピー。ケースもなく裸で入っていて、記録面に指紋がべったり付いている。読めるのか、これ。
母が、ふっと笑う気配がした。
『あんたも昔そうだったわよ。CDの裏べたべた触って、お父さんに怒られて』
「お父さんの話はいい」
『はいはい』
車内に私のほかに乗客が五人。向かいの席の老人がポータブルMDプレーヤーのイヤホンを外し、こちらを見た。
「先生、止まっちゃったねえ」
顔に見覚えがある。遺伝子ネットワークの定期通知で、ごくたまに「皇統因子の保有率が周辺平均を上回っています」という表示が出る地区の人だ。別にどうということはない。誰も気にしない。
「ええ、すみません、ちょっと——」
そのとき、スマートグラスの左レンズに新しい通知が割り込んだ。
〈第0x7A2F1内閣ユニット 暫定内閣総理大臣に任命されました。任期:300秒〉
また来た。先月も一度あった。差分リクエストの束が視界に滝のように流れてくる。承認。非承認。承認。母のエージェントが横から読み上げる。
『「第11教育ブロック連絡網のデジタル移行申請」——あんた、これあんたが出したやつじゃないの』
心臓が跳ねた。自分の申請が、自分の前に来ている。
署名アルゴリズムの検証欄を見る。党ドクトリンとの整合性チェック。赤いエラーが出るはず——出ない。空欄だ。
アルゴリズムが、落ちている。モノレールの基地局だけじゃない。もっと広い範囲で何かが止まっている。
『通せるわよ、今なら』
母の声が、少しだけ真剣だった。
指が動かない。グラスの端に、連絡網のデジタルツインが表示されている。三十二世帯の通話状態を模した仮想モデル。十七世帯が赤——Loss of Signal。電話リレーは半分で途切れている。
私は、承認ボタンに視線を合わせた。
合わせたまま、五秒。十秒。
〈任期終了〉
通知が消えた。差分の束も消えた。何も押さなかった。
車内灯がちらつき、復旧する。モノレールが低い振動とともに動き出した。
CD-Rを鞄に戻す。指紋がもう一つ増えた。
『……押さなかったのね』
「うん」
『なんで?』
答えられなかった。ただ、連絡網の最後の一人——河野さんのガラケーに、電話を掛け直した。呼び出し音が四回鳴って、子供の声が出た。
「はい、河野です」
「副担任の宮瀬です。今日、学校来られますか」
「行きまーす」
通話が切れる。スマートグラスのデジタルツインで、最後の一世帯が赤から緑に変わった。
それだけのことが、指先にじんわり残った。