補習室のトナー、総理の消しゴム
──平成0x29A年08月06日 07:30
コンビニの自動ドアが開くと、熱気とともに蝉時雨が鼓膜を打った。午前七時半。抱えたコピー用紙の束が、湿気を含んでずっしりと重くなる。
「アンタ、また自腹? 経費申請のアルゴリズム、先週解読されたって噂だよ」
脳内で母さんの声が響く。元中学校教諭、享年五十二。くも膜下出血で倒れてから五年、今では俺の視覚野に常駐する口うるさい補佐官だ。
「学校の輪転機、インクのライセンス認証が通らないんだよ。党の教育予算ドクトリンが更新待ちでね」
俺は誰にともなく呟き、第十二学区・夏季特別補習所へと自転車を走らせた。
校門脇の駐輪場は、既に生徒たちの電動キックボードやレトロなママチャリで溢れていた。空きスペースに自転車を押し込むと、管理人の爺さんが無言で近寄り、ハンドルに「一時利用」と書かれたわら半紙のような紙札を針金で括り付ける。風で飛ばされそうなそのアナログな頼りなさが、この国の現状によく似ていた。
教室に入ると、ムッとするような熱気が籠もっていた。エアコンの設定パネルには「環境省推奨・室温二十八度」のステッカーが貼られ、操作盤は物理キーごと透明なカバーで封印されている。
「先生、暑いー。思考クロック落ちる」
最前列の生徒が、机に突っ伏して文句を垂れた。俺は視界の端で「記憶補助アプリ」を起動する。iモード風の粗いドットアイコンが点滅し、生徒の顔横に『田中・E・タケシ / 成績:C / 特記事項:炭酸飲料中毒』というポップアップを表示した。
「我慢しろ田中。今、教材データを送るから」
俺は教卓の端末に、コンビニでスキャンしてきたテストデータを流し込もうとした。しかし、画面には無慈悲な赤い文字。
『エラー:暗号化手続きの不一致。当該教材の署名鍵は、昨晩の第402ヘゲモニー党大会により失効しました』
「嘘だろ……。カリキュラムID、また変わったのかよ」
俺が頭を抱えると、今度は教室の隅で女子生徒が手を挙げた。
「先生、なんか気持ち悪い。熱中症かも」
慌てて壁際のリモート診療端末を起動するが、聴診器型のプローブを当てる前に画面がフリーズした。『医師法第十九条・改正案の署名整合性を確認中……』の砂時計が回ったまま動かない。
「ああもう! 医療も教育も、ドクトリンの更新速度に追いついてないじゃないか!」
俺が叫んだ瞬間、視界が強烈な金色に染まった。
『通知:おめでとうございます。あなたは現在、第0x8C411内閣ユニットの内閣総理大臣です。任期:残り04分59秒』
「駿! チャンスよ!」母さんが叫ぶ。「閣議決定でエアコンの設定温度を下げなさい!」
「違うだろ母さん! まずは教材と医療のロック解除だ!」
俺は虚空に浮かぶUIを操作し、総理権限の電子署名を乱発した。診療端末のロックを強制解除し、教材データの暗号化プロトコルを『教育的緊急避難』として超法規的に承認する。
残り時間十秒。全ての処理が通り、診療端末からは「軽度の脱水です。水分を」という合成音声が流れ、生徒たちのタブレットにはテスト問題が表示された。
俺は肩で息をしながら、総理任期の終了通知を見送った。
「……で、先生」
田中が気だるげに手を挙げた。
「このテスト、タブレットだと書き込みにくいから、さっき持ってた紙の方ちょうだいよ。そっちの方がレアでエモいし」
他の生徒たちも「紙がいいー」「匂い嗅ぎたい」と賛同し始める。
俺は呆然と、苦労して持ってきた重たいコピー用紙の束を見下ろした。総理大臣の権限で通したデジタル承認は、コンビニのトナーの匂いには勝てなかったらしい。
「……分かったよ。一枚ずつ取って回せ」
俺は苦笑いしながら、束ねていた輪ゴムを指で弾いた。