半券の裏に、祖母の声が残る

──平成0x29A年 日時不明

 日付がわからない。

 モニターの右上に表示されるはずのタイムスタンプが「記録欠損」のまま、もう何日こうなのか。日勤と夜勤の境目が曖昧なこの施設では、時計が止まっていても誰も騒がない。

 私はナースステーションの奥で、省人化レジの画面を叩いていた。レジといっても、ここは旧横浜エリアの在宅療養支援センターだから、売り物があるわけではない。利用者の日用品の受け渡し記録と、配食サービスの決済承認を、このレジ端末が一手に引き受けている。バーコードを読み取るたびに、ぴっ、と平成の音がする。

「美津子さん、407号室の渡辺さんの処方変更リクエスト、署名が通らないよ」

 祖母の声が耳の奥で言った。

 渡辺さんは八十代の利用者で、先週から痛み止めの種類を変えたいという申請が出ていた。バーチャル役所の医療手続き画面を開くと、処方変更リクエストの差分断片が赤く点滅している。

「暗号署名の形式が旧世代ね。ドクトリン検証のハッシュ長が合っていないわ」

 祖母——片桐ハツエ、享年七十一。脳卒中だった。生前は訪問看護師で、この施設の前身にあたる診療所で三十年働いた人だ。エージェントになってからも、口調はあの頃のまま、穏やかで、でも処方箋の不備には厳しい。

「合ってないって、どういうこと」

「党ドクトリンの署名アルゴリズム、最近また微修正が入ったでしょう。でもバーチャル役所の医療モジュールは古い鍵のまま。だから検証で弾かれるの」

 画面の上には「処理日時:参照不可」と出ている。タイムスタンプの欠損がここにも波及しているのか、あるいは逆なのか。

 私は引き出しを開けて、渡辺さんの紙のファイルを取り出した。クリアフォルダの中に、古いチケットの半券が挟まっていた。何かのコンサートらしい。印字がほとんど消えかけていて、かろうじて「第二部」と読める。渡辺さんが入所時に「これだけは捨てないで」と言っていたものだ。

 半券を丁寧に戻し、代わりに処方変更の紙の控えを探す。

「ハッシュ長の不一致、手動で補正できる?」

「できるけど、美津子さん、それは本来あなたの権限じゃないわ」

「渡辺さん、痛いって言ってるのに」

 祖母は少し黙った。それから、生前と同じように、ふうっと息を吐く仕草の音声が聞こえた。

「……旧形式の鍵で仮署名を通して、差分の再提出を上位ユニットに回しなさい。解読されてる鍵だから、検証は形式上通るわ。あとで正規の手続きを重ねれば、実害はない」

 半ば公然の秘密。崩壊しかけたアルゴリズムの、その崩壊に救われる。

 省人化レジの横に置いてあるMDプレーヤーから、渡辺さんが聴いていた曲がまだ流れていた。ヘッドホン端子が抜けかけていて、シャカシャカと小さく音が漏れている。曲名はわからない。でもたぶん、あの半券のコンサートと関係があるのだろう。

 仮署名を入力し終えると、バーチャル役所の画面が青に変わった。「承認済(暫定)」。

「ありがとう、おばあちゃん」

「おばあちゃんじゃなくて、片桐エージェントでしょう」

「はいはい」

 渡辺さんの部屋に処方変更の通知を届けに行くと、彼女はベッドの端に腰掛けて、MDプレーヤーのもう一台——予備機を膝に載せていた。

「動かなくなっちゃったの、これ」

「ナースステーションのやつ、まだ渡辺さんのMD入ってますよ。聴こえてました、少し」

 渡辺さんは笑った。皺だらけの手で、壊れたプレーヤーを撫でた。

「あの曲はね、夫と最後に行った演奏会のプログラムなの。半券、まだある?」

「ありますよ。ちゃんとファイルに」

「よかった」

 それだけ言って、渡辺さんは窓の外を見た。日付のわからない空が、曖昧に白んでいた。

 部屋を出るとき、祖母が小さく言った。

「美津子さん、私の倫理検査、来月よ。届いてるでしょう、通知」

 届いている。届いているけど、開いていない。

「代理エージェントになったら、渡辺さんの仮署名の後処理、引き継ぎちゃんとしておいてね」

 私はうなずいた。祖母の声を、もう少しだけ聴いていたかった。

 ナースステーションに戻ると、MDプレーヤーはまだ回っていた。ディスクの終わりが近いのか、音が途切れ途切れになっている。

 半券に刻まれた誰かの夜と、祖母の声と、崩れかけた鍵。

 全部がいつか消える。でも今日——今日が何日かはわからないけれど——まだ、ここにある。