朝の祝詞、電池のあたたかさ

──平成0x29A年02月21日 07:00

平成0x29A年02月21日、朝七時。社務所のストーブは点いたり消えたりで、灯油の匂いが紙の束に染みていた。

私は小さな神社の手伝いをしている。といっても巫女装束じゃない。フリースの上に袴だけ履いて、足元はスニーカー。参道の端には「奉納QR」の札、賽銭箱の横には、なぜかガラケー用の充電スタンドと、サブスク祈祷の案内が並ぶ。平成のままに、平成じゃない。

胸ポケットの端末が短く震えた。

『エージェント定期倫理検査:本日08:00より。暫定代理へ切替予定』

「よりによって今日か」

耳元の骨伝導が、いつもの声で返す。

『大丈夫。おまえは、段取りだけ守ればいい』

父の人格が移植されたエージェント――正志。享年五十六。心不全。私がこの社務所に戻った年、父はもういなかったのに、声だけはずっといる。

今日は、月次の「地域合意」の日だった。町内会が解体した代わりに、氏子総代も、消防団も、保育園の保護者も、ここで投票する。儀礼としての投票。神前で、ブロックチェーン投票。

社務所の机には、投票用紙みたいな札が積まれている。裏面に、古いバーコードと新しいハッシュが並んで印刷されていて、参拝者はそれをコンビニに持ち込む。コンビニのコピー機で読み取らせると、投票が記録され、同時に控えがコピーされる仕組みだ。

「神社で投票して、コンビニで確定って、何のご利益だよ」

私がぼやくと、父は笑うはずだった。

でも今朝の父は、少し間が空く。

『……コピーは、熱で伸びる。紙は伸びる。だから……』

「だから?」

『だから、神棚の下に置くな。湿気る』

父らしいのに、焦点がずれている。いつもなら、投票の手順そのものの穴を先に突く。私の背中が、薄く冷えた。

境内の片隅で、私は投票端末の外装を外した。昨日から読み取りが一回に一回、失敗する。賽銭箱の鈴の紐が風で鳴り、カラスが一羽、狛犬の頭に乗った。

原因は、カバーの爪の欠けだった。古いABSが劣化して、微妙に浮いている。センサーが振動を拾って、コードがずれる。

私は引き出しから、透明な小袋を取り出した。中には小さな白い部品。町の工房で3Dプリントしてもらった代替爪だ。表面が少しざらついて、積層の筋が見える。

「これで、いけるはず」

父が言う。

『……それ、向きが逆だ』

「え?」

私は手を止めた。よく見れば、左右がある。父が正しい。いつもの父だ。

ところが次の瞬間、父は続けた。

『逆に付けろ。逆の方が、落ちない』

「……どっちだよ」

笑いが出そうで、喉が引きつった。ゆらぎ。倫理検査の前に、よく起きる。人格の輪郭が、ふっと薄くなって、別の癖が混じる。

境内の手水舎で手を洗い、私は社務所の棚から単三を四本取った。充電式NiMH。ラベルの角が擦れて、何度も使われた白がくすんでいる。

「これも替えとくか。朝は冷えるし」

投票端末に電池を入れると、じんわり温度が戻ってくるのが掌で分かった。昔のラジカセみたいな、確かな重さ。

『NiMHは、最後まで粘る。アルカリみたいに急に落ちない』

父が言った。妙に現場っぽい、社務所の父ではなく、工場の父みたいな口調。

「父さん、今日……ちょっと変だ」

『変じゃない。おまえが、変に怖がってるだけだ』

怖がってる。その指摘だけは、当たっていた。

七時半。最初の参拝者が来た。通勤前の若い人で、イヤホンをしながら鈴を鳴らし、賽銭を落とす。手の中には、私が渡した投票札。

「これ、コンビニでコピーして投票ですよね?」

「はい。コピー機の“行政・儀礼”ってメニューから」

彼は笑って会釈し、走っていった。鳥居の外に、コンビニの看板が見える。

その背中を見送りながら、父がぽつりと言った。

『おまえ、今日は投票内容、見ないのか』

「見ないよ。私はただの手伝い」

『違う。おまえは、ここを守ってる』

言い方が、父の最期の数日みたいに優しかった。私は返事ができず、3Dプリント部品を正しい向きで嵌めた。カチ、と乾いた音。

端末の画面に、投票の進行ログが流れ始める。

『投票記録:成功/台帳同期:3ノード遅延』

遅延。最近はよくある。みんな、どこかで“署名の作法”を知ってしまったから、台帳は素直に回らない。

八時が近い。倫理検査の時間だ。

父の声が、少し遠くなる。

『……もし、俺が戻らなくても』

「戻るよ。いつも戻ってる」

『……おまえが、逆に付けた部品でも、動くようにしろ』

その言葉は矛盾しているのに、なぜか胸の奥が軽くなった。正解じゃなくても、動く余地がある。儀礼も、投票も、私たちも。

境内に、二人目の参拝者が入ってくる。年配の女性で、手には古いiモード風の折りたたみ端末。ストラップには、平成のキャラクター。

「おはようさん。あんた、これコピーしてくれる?」

「はい。札を持って、向こうのコンビニへ」

彼女は頷き、鈴を鳴らし、柏手を打った。乾いた音が朝の空気に広がる。

私の掌の中で、NiMHの電池がまだ温かい。

父の声が、最後にひとつだけ残した。

『大丈夫。温かい間は、つながってる』

そして、ぷつりと切れた。代理への切替が始まったのだろう。

それでも私は、鈴緒の揺れが止むまで、そこに立っていた。つながりが消えたわけじゃないと、電池の重さが教えてくれたから。