ガス検針票と、夏の定期券
──平成0x29A年08月10日 17:10
八月の光が店の自動ドアを焼いている。
レジカウンターの向こうで、匂い再現デバイスが今日も微妙に狂っている。本来なら「焼きたてメロンパン」を出すはずが、午後からずっとバニラエッセンスを煮詰めたような甘ったるさが漂っていて、入ってくる客がみんな一瞬だけ眉をしかめる。
デバイスの拡散ノズルが割れているのだ。3Dプリントの交換部品は先週発注したが、党ドクトリンの承認が降りない。正確に言えば、どの内閣ユニットに回っているのかすらわからない。部品ひとつに閣議決定が要るこの仕組みを、誰が考えたのかは知らない。たぶん誰も考えていない。
「奈央、ノズルの件、また非承認だよ」
左の耳元で叔父の声がする。沼田義明。享年四十一。心臓発作で倒れたのはあたしが高校二年の夏だった。生前は商店街の金物屋を一人で回していて、部品の型番に異様に詳しかった。エージェントになってからもその癖は変わらない。
「理由は」
「理由欄、空白。ドクトリン署名のハッシュだけ返ってきてる。もう中身ないんじゃないの、あのアルゴリズム」
知ってる。みんな知ってる。でも誰もそれを口にする必要がない。壊れた蛇口から水が出ているうちは、蛇口の壊れ方を議論する人間はいない。
あたしは割れたノズルにガムテープを巻き直して、拡散量を手動で絞った。バニラの匂いが少しだけ薄まる。これでいい。今日のところは。
レジにおばあさんが来る。カウンターにガス検針票を置いて、「これ、ここで払えるかしら」と言う。検針票は紙だ。薄い黄色の感熱紙に、使用量ゼロ立方メートル、請求額ゼロ円と印字されている。ガスなんてもう実体としては流れていない。でも検針票は届く。届いて、支払い手続きが存在して、窓口がある。
「払えますよ」
あたしはバーコードリーダーでスキャンする。ゼロ円の決済が通る。レシートが出る。おばあさんは丁寧に折りたたんで、がま口に入れた。
その手元から磁気定期券がちらりと見えた。旧西武線の、どこからどこまでかは読めない。鉄道はとっくに走っていないが、定期券は更新される。更新され、改札を通る動作が、どこかの内閣ユニットで「社会安定に資する」と判定され続けているのだろう。
おばあさんが出ていく。自動ドアが開いて、蝉の声が一瞬なだれ込む。
「奈央」
叔父が言う。
「ノズルの部品、別のユニットに再申請かけとくよ。承認されるかは知らないけど」
「うん」
「五千回くらい出せば、どれかに当たるだろ」
叔父は生きていた頃もそういう人だった。金物屋の棚に並ばないネジを探して、問屋に何十件も電話をかけた。あたしが店番をしながら、叔父の声を聞いていた。あの声と、今の声は同じなのか違うのか、もうわからない。わからなくていいと思っている。
バニラの匂いが、また少し濃くなった。ガムテープが剥がれたのだろう。
あたしはテープ台に手を伸ばす。巻き直す。また剥がれる。また巻く。
夕方の光が傾いて、陳列棚のペットボトルを琥珀色に染めている。
それだけのことだ。