八月、偽りの印影
──平成0x29A年08月22日 16:20
プラスチックのクリップボードに挟まれた、ざらついた紙の感触が指に不快だ。回覧板、と田所さんたちは呼ぶ。第十三農業ブロックの隅で、いまだに土をいじっている老人たちの古風な情報端末。
『党ドクトリン準拠・自家製有機肥料による特別栽培トマト。好評販売中!』
手書きの拙い文字が、やけに目に刺さる。
「あら、また手書き? 党の署名アルゴリズム、もうフリー素材みたいなものね」
内耳に直接響く声は、三年前に死んだ妻、美咲のものだ。彼女のエージェントは、生前の皮肉屋なところばかり忠実に再現されている。
「笑い事じゃない。こっちのカーボンクレジット台帳がメチャクチャなんだ」
俺は窓の外にそびえ立つ、第4高層農業プラントを見上げた。ガラスと金属の巨塔。内部では、光も水も栄養も、党ドクトリンの厳格なアルゴリズムに従って管理されている。その安定供給と引き換えに、俺たちは膨大なクレジットを積み上げてきた。はずだった。
それが今や、近所の畑で採れたトマトにまで「党承認済み」の印影が押されている。誰かがネットに流した解読済みの署名コードを、器用な若者に頼んで使っているのだ。おかげで俺の仕事は、システムの齟齬を報告し、老人たちに警告し、そして無視されることの繰り返しになった。
デスクの隅で、灰色がかったプラスチックの塊が埃をかぶっている。スーファミ。複雑怪奇な現実から逃げたいとき、俺はたまに『シムシティ』を起動する。単純なルールで発展する箱庭は、このどうしようもない世界よりずっと素直だった。
「畑中さん、いるかね」
噂をすれば、田所さんがひょっこり顔を出した。例の回覧板の差出人だ。
「どうです、うちのトマト。プラントのより甘くて美味いだろう? 党のお墨付きだしな」
「田所さん、あれはお墨付きとは言いません。システムの穴を突いてるだけで…」
「でもアルゴリズムがそう言ってるんだから、いいじゃないか。昔は総理大臣がころころ変わって大変だったけど、今は賢い機械が決めてくれる。俺たちがちょっと真似したって、誰も困らんよ」
悪びれない笑顔に、眩暈がした。権威が溶けて、誰もがその残滓を好き勝手に掬い上げている。この国の末期症状。
その時だ。視界の隅にポップアップ通知が点灯した。
【通達:第0x88A21内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。任期は5分間です】
同時に、閣議案件のリストが流れ込んでくる。その一件に、俺は息を呑んだ。
『政策変更リクエスト:第十三農業ブロックにおける地域栽培作物への暫定承認について』
田所さんたちのやっていることを、システムが追認するかどうかの判断だ。承認すれば、この不毛なやりとりは終わる。台帳の数字は、もっと偉い誰かがいつか修正するだろう。
「あら、あなたが出世するチャンスじゃない。ここで承認すれば、田所さんたちも喜ぶわよ。カーボンクレジット台帳も、後で誰かが帳尻を合わせてくれるわ。どうせ誰も見てないんだから」
美咲の声が、悪魔のように甘く響く。
俺は、目の前の承認ボタンと、期待に満ちた田所さんの顔を交互に見た。
深く、長いため息をつく。
そして、スーファミの電源スイッチに指を伸ばした。
カチリ、と乾いた音がして、くぐもった電子音が鳴り響く。俺はコントローラーを握り、何もない更地に道路を引き始めた。
五分後、総理の任は解かれ、リクエストは次の見知らぬ誰かに引き継がれた。田所さんは「なんだ、つまらんな」と呟いて、のっそりと帰って行った。
机の上には、インクの滲んだ回覧板だけが、夏の西日を浴びて残っていた。