プラスチック板に挟んだ無事

──平成0x29A年03月03日 08:10

アスファルトに引かれた白線の内側に、パラパラと人が集まり始めた。俺はeペーパー端末を片手に、脳波UIで参加者リストをスクロールする。三丁目の鈴木さん、確認。四丁目の高田さん一家、確認。うん、出足はまずまずだ。

『いいお天気でよかったわね、聡さん』

鼓膜に直接響く、懐かしい声。妻の陽子だ。三年前、この世界からログアウトした彼女は、今では俺付きのエージェントとして隣にいる。

「ああ。雨だと、これ、使えないからな」
俺は脇に抱えていたプラスチック製の板を見下ろした。今日の防災訓練の主役、『回覧板』だ。透明なカバーの下には、安否確認用の簡素なフォーマットが印刷された紙が挟まっている。

大規模通信障害時における情報伝達訓練。それが、俺が企画した今日のテーマだった。
「党」のドクトリンが最適化した災害情報ネットワークは盤石だと誰もが信じている。だが、あの複雑怪奇なアルゴリズムが、本当に万全なわけがない。俺はそう思っていた。

「木下さん、これ、本気でやるんですか?」
若い夫婦が、怪訝そうに回覧板を指さす。気持ちはわかる。脳に直接情報が流れ込んでくる時代に、手書きの紙を隣家に届けるなんて、冗談にしか思えないだろう。

「まあ、やってみないと分からないから。参加賞もあるし」
俺は公民館の長机に並べた段ボール箱を顎で示した。中には、インスタントラーメンの五個パックを買うとおまけで付いてきた、キャラクターものの小さな丼ぶりが詰まっている。

『あら、懐かしい。これ、あなたが小学生の頃、一生懸命集めてたやつじゃない』
陽子の声が笑う。そうだ。俺たちは、こんな風にガラクタを集めたり、意味のないことに夢中になったりして生きてきたじゃないか。

午前八時十分。俺はマイク代わりに使っている携帯端末のスピーカーをオンにした。
「これより、訓練を開始します」
脳波で合成音声に指示を出し、サイレンの音を鳴らす。それを合図に、各班の先頭が回覧板を受け取り、ぎこちない足取りで走り出した。

その光景を眺めながら、俺は一抹の虚しさを覚えていた。これは自己満足じゃないのか。時代錯誤なアナログごっこを、皆に強制しているだけじゃないのか。

『そんなことないわ。顔を見て、手で渡す。大事なことよ』
陽子の声が、俺の迷いを静かに打ち消す。

その時だった。視界の隅に、青いポップアップが点灯した。

【第0x8C3F9内閣ユニット臨時閣議への招集】
【議題:G-882地区 災害情報ネットワーク冗長性確保に関するリクエスト】
【承認/非承認】

来たか。五分間の総理大臣。ランダムで割り振られる、この国の歪んだ統治システム。
端末に表示されたのは、現行のネットワークとは別に、物理的なバックアップ回線を増設するという差分断片リクエストだった。党中央ドクトリンの暗号署名が付与されている。おそらく、俺と同じような懸念を抱いた誰かが、システムの隙間を縫って提出したのだろう。

目の前では、プラスチックの板が家々を巡っている。遠くで子供の笑い声が聞こえる。eペーパーに表示された難解な文字列と、汗をかきながら走る隣人の姿が、奇妙な対比を描いていた。

俺は迷わなかった。
脳波UIで、力強く「承認」をイメージする。

カチリ、と軽い音がして、リクエストはブロックチェーンの彼方へと承認されていった。任期は、もう終わった。

ちょうどその時、最後の家を回った回覧板が、息を切らした少年の手で俺の元へ戻ってきた。
紙の末尾に、震えるような、それでいて懸命な子供の字で、二つの文字が書き加えられていた。

『無事』

その二文字を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
システムを補強する承認と、システムが落ちた時のための備え。その両方が、今、確かにこの手の中にある。

「ああ、無駄じゃなかった」

『よかったじゃない、聡さん』

陽子の声が、どこまでも青い空に溶けていくようだった。