見えない糸と、まどろみの閾値

──平成0x29A年01月17日 11:50

平成0x29A年1月17日、午前11時50分。第4福祉ブロックのデイルームは、昼食前のまどろみの中にあった。
私は携帯端末の画面をスワイプし、入所者たちの午前のバイタルデータを分散ストレージへとアップロードしていく。足元では、円盤型のロボ清掃員がセンサーの赤い光を点滅させながら、車椅子の轍を避けて健気に床を磨いていた。

「康平、3番テーブルの山田さんのデータ、ハッシュの生成で弾かれてるぞ」
右耳のイヤーカフから、不満げな声が響いた。3年前に心筋梗塞で亡くなった父、昭男のエージェントだ。生前は町工場の品質管理をしていただけあって、こういうデータ不整合にはやたらと煩い。
「やり直すよ。山田さん、またMDプレーヤーと医療タグを一緒にポケットに入れてるんじゃないかな」

私が視線を向けると、窓際の日だまりに座る山田さんは、分厚いMDプレーヤーのボタンをカチカチと押し込んでいた。ガチャリと鳴る物理メディアの駆動音とは裏腹に、彼が聴いているのは分散ストレージから直接ストリーミングされる平成中期のヒットチャートだ。彼の手元には、読みかけの文庫本が開かれており、栞代わりに色褪せたドーム公演のチケットの半券が挟まっていた。印字された日付はとうの昔に擦り切れている。

「いや、磁気干渉じゃない」父の声が少しトーンを落とした。「遺伝子ネットワークの認証レイヤーだ。微細な異常値が出てる。プロトコルの許容範囲をほんの少し超えてるんだ」
私は端末のログを開いた。国民に薄く広く伝播した皇室遺伝子をベースとするネットワーク。普段は誰も意識しないが、医療や公的な身分証明の根底で、私たちはその見えない糸でシステムに繋ぎ止められている。山田さんの遺伝子情報が、老いによるものか、あるいはシステム側の揺らぎによるものか、わずかにノイズを発しているらしかった。

そのとき、視界の端でARの通知が明滅した。
『第0x99F2A内閣ユニットより通知:あなたは現在、内閣総理大臣に選出されました。任期は残り4分59秒です』

見慣れた、しかし唐突な指名。ポップアップされた閣議決定の差分リクエストにはこうあった。
『高齢者福祉区画における遺伝子ネットワーク認証の許容閾値引き上げに関する特例措置』
私は思わず息を吐いた。党ドクトリンのアルゴリズムは、社会の安定に最適と判断すれば、こういうパッチをリアルタイムで生成してくる。もう半ば公然の秘密となっている解読済みキーをクリップボードからペーストし、私は「承認」のアイコンをタップした。

ものの十秒の執政。
直後、端末の画面で保留になっていた山田さんのバイタルデータが、緑色のチェックマークに変わり、分散ストレージへと静かに吸い込まれていった。

「通ったな。まったく、システムもガタが来てるんじゃないか」父のエージェントが呆れたように言う。
だが、私は少し違うことを考えていた。
窓際の山田さんは、MDプレーヤーからの音楽に合わせ、かすかに指先でリズムを取っている。ロボ清掃員がその足元を静かにターンして遠ざかっていく。
異常だったのはシステムではなく、ただ私たちが等しく老いて、少しずつ変質しているだけなのかもしれない。その微細な綻びを、誰かの五分間がすくい上げ、許容し、私たちはこうしてまた、薄く繋がったまま今日を生き延びている。

11時55分。食堂から漂ってくる味噌汁の匂いが、デイルームの空気をゆっくりと温め始めていた。